忘れがたきもの

学生の頃の旅は、帰っても情念が彼の地に残っていて、すぐにでもまた行きたいと願うようだったのですが、歳を取ってくるとそういう性急さはどこかにいってしまうらしく、それどころか、風景の美しさや物珍しさといった目に訴える対象への心残りみたいなものはほとんど感じません。もちろん、写真を見直しながら、あらためてきれいな場所だなぁと思いはしても、また見たいという気持ちは正直なところ、それほど大きくはないのです。

そこで、では惹かれる部分がどこにあるかと考えてみると、なんとも下らない話になりますが、やっぱり食べ物ですね。食べ物、特に日本にはない物は、その土地の記憶と結びついて、ますます食欲をそそり始めるので質が悪い。

ドイツの場合、日本人に取り憑いてしまうような食事は、一般的に言って、ほとんどないと思います。例えば、次の写真はドイツ料理では典型的な一皿であるシュヴァイン・ブラーテンという豚料理ですが、私は嫌いではないものの、これを食べないと年が明けないなどとは思いません。付け合せで出てくている、じゃがいもなどで作った団子「クネーデル」や酢漬けキャベツの「ザウアークラウト」などもドイツ料理の定番ですし、この時の食事(ザンクト・フローリアン修道院の中にある食堂でした)はまったく悪くなかったですが、量もべらぼうに多く、一度食べたら、あと5年か10年口に入れなくてもいいかなという類のものです。見た目もよろしくないですし。





一方、これは止められない、止まらないと申し上げたくなるのが、ドイツ風の朝ごはんですね。とくにカイザーゼンメルという軽い触感の丸パンは私の好みで、これをナイフで半分に割ってバターを塗りたくり、よりどりみどりにホテルが並べてくれたハムとチーズを載せてパクリと食いつくと、それで半日は幸せ感が持続します。日本にはない存在感のはちみつやジャムの皆さんも大変よろしい。さらにどこに行っても美味しいヨーグルトや、新鮮なオレンジジュースや、濃い目のコーヒーを味わっていると、至福という文字がコーヒーの香りと共に匂い立つのを感じます。ドイツのパンは色々な粉があり、種類が多いので飽きが来ません。





あの朝ごはんが何故そんなによいのか、よく分からないのですが、ともかくも、パンとコーヒーと、あの単純な美味しさは日本では手に入らない幸せです。目の幸せよりも舌の幸せ。そういう意味で言うと、逆にどんどんと日本を離れられなくなります。ドイツでは朝ごはんだけ。日本には朝から晩まで全部がありますから。歳をとって来た証拠の一つだとは思います。