村上春樹の性描写はストリップティーズに思える

昨日書いたように、大江健三郎さんにとって音楽は書き割りの一つにしか過ぎず、それに対して村上春樹さんは音楽を自身のエンジンにしていると僕には見えるのだが、対象が「音楽」から「性」になると、まるで立場逆転だと感じられるのが面白い。


村上さんは『ノルウェイの森』以降、俄然露骨なセックス描写を使うようになっていったが、『ノルウェイの森』だろうが、『国境の西、太陽の南』だろうが、『海辺のカフカ』だろうが、それらはおまけというか、濃厚な読者サービスというか、あれば(男性読者は)楽しいが、かなりの部分、本質的にはなくてもオッケーというものである。ハリウッドの娯楽映画の美人女優のヌードみたいなもんだ。『海辺のカフカ』の哲学を語る娼婦だのは、ありゃ間違いなくサービスだわな。佐伯さんとの絡みは『オイディプス』を下敷きにしているという以上必要なのだが、あれこそ『オイディプス』ありきのつじつま合わせに思えてしまう。誤解なきよう言っておくと、別にサービスがいやだっていう話じゃないんですけど。


その点、今、久しぶりに『ピンチランナー調書』を読みながら思うのだが、大江さんが書くと場面のつなぎのようなおまけのセックスシーンですら、ある種の必然性が感じられるのはなぜ? 初めて『個人的な体験』の濡れ場を読んだときには、あれが出版当時はセンセーショナルな内容だったとは到底信じられないおとなしい描写にむしろ驚いたが、それが作品にとって臍である点は疑いようがない。


何故なのだろうと考えて、光さんとともに生きた大江さんにとって「性」は生殖と不可分なものであると意識されていることに思いが至る。村上さんのセックス描写は子供が生まれそうにないんだよね。


村上さんが「性」を描いていいなあと思ったのは、『今は亡き王女のための』という短編。そこで描かれていたのは諸行無常の人生で、「性」は脇役か、単なる小道具ではあったのですが。