換骨奪胎

開高健はそうしたくないと書きながら、同じトピックや感想を何度か繰り返し複数のエッセイで取り上げていた。歳をとってくると、人は忘れるようになるということを自分のこととして学んでいる今となっては特に詮索をすることでもないと思うのだが、若い頃はなぜ同じことを何度も書くのだろうと実にいぶかしかった。


その一つに「文章は副詞・形容詞から腐っていく」という開高さんの見立てがある。形容詞や副詞で表面的に文章を飾り立てることに腐心しても、文章というのはそこから古びてくる。だから言葉はぎりぎりまで切りつめて使えと、そんな風なことを開高さんは言っていたと覚えている。ヘミングウェイを愛した開高さんだった。


そんな風に述べ、かつ実践を貫いた開高さんだが、彼がどんなに吟味を重ねて言葉を見つけてきても、後の世がそれらを換骨奪胎して使いまくると、結局その表現は腐ってしまう。開高さん自身が言っていたとおり、それは形容詞であり、副詞であった。情報化社会の皮肉か、開高の法則の正しさか。


そのもっとも典型的な例に「まったり」がある。開高が当時は斬新なアイデアだった食通小説『美しき天体』で料理を形容するのに使った「まったり」は、彼が食を書く際の専売特許となった。ところが、その後この表現は有名料理評論家がパクり、漫画で使われ、雑誌の料理記事の定番表現となり、食が文学になるということを含めて大地にはぺんぺんぐさも生えない状況になってしまった。開高さんが生きていたら、なんとおっしゃったか。もうその言葉から滋味は消えてしまったかもしれないが、「まったり」と言えば、開高さん。ファンだった者は忘れないぜ。