『ワーキングプア』を読む

書店で大量に平積みされていた門倉貴史ワーキングプア』を買い求める。一読し、事態はそこまで逼迫していたのかとあらためて驚いた。経済格差の広がっている感覚について吉本隆明さんの著作を引いて印象を書いたばかりだが、マクロ経済に疎い者としては、この本に紹介されている統計数値のあらかさまな厳しさを前にすると絶句に近い気持ちを抱かされる。しかし、一呼吸を置いて考えてみると、肉親を含めて自分の周囲で企業のコストダウン施策によって解雇された者は何人もおり、この本が述べる経済の実態とまるで齟齬がない。


ワーキングプア いくら働いても報われない時代が来る (宝島社新書)

ワーキングプア いくら働いても報われない時代が来る (宝島社新書)


同書が「ワーキングプア」と呼ぶのは年収200万円以下の勤労者のことである。なんと全勤労者の4分の1が、この水準なのだという。おそらく女性のパート労働者がその比率を高めているのだろうと活字を追いながら瞬間に想像したら、著者は追い打ちをかけるように男性の「ワーキングプア」比率が上昇しており、勤労男性の14.4%がそれに当たると紹介する。暗澹たる気持ちに突き落とされる。


同書は、「ワーキングプア」の広がりを概観した後、中年労働者、派遣社員非正社員といった異なる属性毎に低所得労働が急造しているミクロ構造と生活者の実態を分かりやすく記述する。コラムとして各章の最後に何人かの労働者のインタビューが掲載されており、これが読み物として秀逸である。話題ゆえに面白いという言葉遣いは不謹慎のそしりを免れ得ないのだが、思わず引き込まれる。経済の不調が社会の各層にもたらしている不幸はこのようにも多様なのかとトルストイの言葉を連想する俺はお気楽なものだと思う。同時にいま会社から放り出されたら自分も同じ厳しさにたちどころに直面することを直感する。転職の際に「あなたは何ができますか」と尋ねられて「部長ができます」と答えるおじさんがいるという笑い話を聞かされたときには、本気で笑っていたのだ。かつての俺は。


少し前までは世界最高水準ですといばっていた日本人労働者の所得レベルが世界の中で相対的に下がっていること自体は、他国は成長しているのに日本はしていないという話を聞かされ続けているから、まあそうだろうなとは思う。情報がスムーズに流れるICTの仕組みができればできるほど、グローバルに情報が流れない、また局地的にも流れない日本の不合理さは際立つ。これからますます相対的な順位は下がるだろう。日本の土地に住まう皆が堺屋太一さんの言うところの“アジアの田舎”で幸せならば、それで悪かろうこともない。しかし、格差の拡大は看過できない。アジアののんびりとした田舎というメタファーが成立し得ないではないか。