大江健三郎『ピンチランナー調書』に鼓舞される


昭和34年の生まれの僕は、おそらく学生運動クオリアを少しでも感知しうるというか、それなりに生の感触で記憶しているほぼ最後の世代に属していると言ってよいだろう。政治の季節が終わった今、学生運動を素材にしている文学作品は、仮に作品にメッセージの普遍性を秘めていたとしても、時代背景やそこで語られる政治的言辞の古めかしさ故に忘れ去られる存在なのか。それともそれなりに読まれていくのか。そこに興味がある。


大学に通った頃には、まだ党派の立て看板が構内で幅を利かせてはいたが、ヘルメットとタオル姿は風前の灯火といった状態で生き残っていたに過ぎなかった。文学は、政治運動が当時の若者、つまり僕の一世代上の人たちにとっていったいどんなものだったのかを想像するための教科書だった。別にそのために『されどわれらが日々』を読むということをしたわけではないのだが、小説を読んでいて頻繁に作品の素材として登場する"Only Yesterday"の風景は、子供の頃にテレビニュースの映像として、新聞記事として目にした記憶を反芻し、上の世代を理解する助けになった。伝わった情報がどこまで客観的な真実を反映しているのかは別として、「このように思考し、行動する主人公や登場人物に感情移入する昨日があったのだ」という認識は文学を通じて得ることになった。


現象としてはいつの時代も若者のために存在しているのが文学だとすると、それらの作品が今後古典の一部として残るのかどうかは、戦後日本の政治状況が国民の記憶としてどの程度、あるいはどのように伝わるかを規定しているとも言えるだろう。
高校生の時に読んで感銘を受け、若い頃繰り返し読んだ大江健三郎ピンチランナー調書』を久々に再読し、やはり、昔と同じ場面、同じフレーズに鼓舞された。この作品が大江さんの代表作の一つとしてきちんと残って欲しいと自分の過去へのノスタルジーにかられながら思った。背景を成す政治状況が分からない故に、あるいは語られる政治的な思想が古くさく感じられる故に、脳に障害を持って生まれた子息・光さんを素材にした『空の怪物アグイー』以降の一連の作品を締めくくる(と当時は大江さん自身が書いていた)この作品が忘れられるとしたら、それはあまりにも惜しい。


ピンチランナー調書』は、38歳の原子力の研究者「森・父」と、頭に障害を持って生まれたその息子「森」が、"宇宙的な意思"によってそれぞれ18歳の少年と28歳の壮年に「転換」し、学生運動グループを裏から支援して原爆を製造・保持させようとする右翼の大物「パトロン」に戦いを挑むという奇想天外・奇妙奇天烈なストーリーの小説である。「森」と「森・父」同様、頭に障害を負った息子を持つ小説家(=大江)が、「森・父」が送ってくるカセットテープを基に口述筆記を行い組み立てた文章が、この小説であるという韜晦を極めた構成になっている。
作家と瓜二つの情報源という、いかにも物語的に創造力を刺激する設定を作り、同時にどこまでが本当の話がそもそも著者にも分からないという仕掛けを組み入れることによって、小説の荒唐無稽さは狡猾に脱構築される。そういう荒唐無稽の中に表現された真実の言葉を味わってくれと言わんばかりの作者の書きっぷりに、読者は奇術師の技に脱帽するかのように掴まえられる仕掛けである。久しぶりに大江さんの小説を手にして、この人に勝てるお話の書き手、この人の書く状況描写の見事さを越える書き手が今日いるとは思えないと、あらためて脱帽した。


もし大江さんが初めての方でお読みになる方がいらっしゃれば、ぜひ『空の怪物アグイー』『個人的な体験』『万延元年のフットボール』をまずお読みになることをお勧めします。そんな悠長なとおっしゃるのであれば、せめて『個人的な体験』だけは。そして『ピンチランナー調書』を読んで感心した人も、くだらねーと思った人も、政治的な主張が気になると思った人も、最後は名作『新しい人よ目ざめよ』で魂を昇華させて下さい。