写真が伝えるイメージの直接性


大江健三郎さんの『ピンチランナー調書』はよい作品なのに、残念なことに学生運動セクト対立を素材に取り込んだ故に後世の読者にとって難解な作品になってしまっている。左翼的思想の是非は脇に置いておくとして、それがあの時代にどういうものであったのかをある程度理解していないと、昨日書いたとおり『ピンチランナー調書』を読むのはかなり辛い。とくにどこまでが大江さん独特の優れたユーモアで、どこまでがまじな話なのかの区別がつかないのではないかと思う。それだと、あの作品の味がどこまで伝わるか。世相を積極的に文学の俎上に載せた作品は、大きなハンディを負うことになる。


庄司薫さんの『赤頭巾ちゃん気をつけて』なども同じ憂き目を今まさに経験しているようで、ブログで若い読者の読後記を読むと、「女の子にも負けず、ゲバルトにも負けず、男の子いかにいくべきか」という同書の宣伝文句の「ゲバルト」の方、つまり主人公の頭の上から降りかかっていた政治思想的なプレッシャーについて読者がついていかないので、やたらさわやかなだけの青春小説として読まれているようである。もっとも、あの作品の場合、必要とする時期に必要とする世代に十分に消費されたのだから、それに対してうじうじと心配することもないのだが。


文学が、なんでもありの多様性ゆえにこうしたリスクを抱え込むのに対し、写真はシンプルだが、シンプルゆえに強い。土門拳の『筑豊のこどもたち』はどうだろう。日本の工業化を支えたシンボルでもあった三池炭坑がエネルギー政策の転換に伴い斜陽化する中、三池争議直前の時期に現場に出向いた土門拳の写真は、彼らの置かれていた貧困の実相とその中でけなげに生きる子供のエネルギー、それらの強烈な対比を後世の我々にも真っ直ぐに伝えてくる。


筑豊のこどもたち

筑豊のこどもたち


筑豊のこどもたち』の中で土門の中心的モチーフになったるみえちゃんとさゆりちゃんの姉妹の姿を見ていて、また時代は繰り返しているのかもしれないと、ふと感じる。石炭から石油へのエネルギーの転換は三池やぼた山のような場所として誰の目にも見える負の象徴を携えていたが、現在の情報化による産業革命にはそうした土門拳が撮りに飛んだような分かりやすい象徴的な場所はない。三池争議のような政治運動を形作る目に見える敵もいない。日本の国全体に目に見えないぼた山は広がっている。闘争の場所はネット?  


今朝は今年初めて雪を眼にした。今年は暖かいから雨は降っても雪にならない。今日もあっという間に止んで、そのうち雨になった。午後、小雨が止んだ時間帯を見計らって裏山まで散歩に出かける。