ブログ上でこのような素敵な対話が生まれる


『三上のブログ』のコメント欄で繰り広げられたkillhiguchiさんと三上さんの質の高いディスカッションにはなんとも勇気づけられた。


三上さんが毎日紹介しているジョナス・メカスの短編映画のシリーズ。ここに登場する盲目の写真家ユジャン・バフチャルに対してkillhiguchiさんがコメントを行い、ユジャン・バフチャルの写真、あるいは「聾者の音楽」「聾者の文学」は健常者の感覚が届かない新しい地点を開拓する可能性を持っているが、「サカナとヒトが異なる世界像を生きているように、我々と聾者や盲者は、違う世界の中のリアルを生きているのではないでしょうか」と突き放した意見をおっしゃる。


急接近しながらも自らの軌道に乗って去っていく天体をイメージさせるkillhiguchiさんに対し、三上さんは、「「私」もまた一人の「聾者」であり、「盲者」であるという哲学的視点が必要である」とした上で、健常者と障害者が「「違うリアルに近付こうとしている」とは私は思いません。むしろ、違うリアルを触れあわせて、新しいリアルを共に生み出そうとしている、が正解だと考えます」と反論する。そうでなければ、表現し、それを共有する意味はないと。


どちらが引いても、また押し合うだけでも成立しないぎりぎりの理性的な対話がこうして成立するのもまた不思議のメディア、インターネットの現実なのだと僕は嬉しくなった。ともかく、このやりとりにおける三上さんの執念深さには脱帽した。また、「ところで、ここからですよ。本番は(笑)」とおっしゃる三上さんのメッセージをしっかり受け止めて、言い逃げしないkillhiguchiさんの誠実な態度にも感動した。お二方の知力と忍耐力があればこその素敵なコラボレーション。これに対し、僕自身は、数日前に職場で「正しい」「正しくない」とお互いが言い張る低劣なディスカッションをしたばかりなのである。ぜひ、皆様原文をお読み下さい。


■盲目の写真家ユジャン・バフチャル:365Films by Jonas Mekas(『三上のブログ2007/1/19)


ところで、この中で、三上さんがご自身のブログへの取り組みについて「日本語で言えば、「漢字」で考えないようにする訓練とでも言えるような実験」という、「なるほど」とも言いたくなる、しかし取りようによっては不特定多数の誰かさんにとって実に辛辣にも響くものの言い方をしている。三上さんが哲学の先生でありながら、哲学の専門家しか分からない用語をブログ上では決してお使いにならないのを、僕は密かに尊敬してきたのである。


昨晩の天気予報では晴れると聞いていたのに、また曇天の一日。午後の散歩の時間はますます雲が厚くなった印象。