曇天

二十代の頃までは、灰色の空を見ても屈託を感じることはなかった。暗い空模様はむしろ自分の気持ちを癒す方向に作用することが多かったように思う。当時、まれに欧州に出かけることがあると、厚みのある重たい曇天が、ひたすら冷たい石の街に禍々しい翳りを宿すのを、むしろメランコリックな気分を解放する機会であるかのように感じていたように思う。日本の日常には、といっても僕の知っていた東京近辺のということだが、そうしたメランコリーを解き放つ場所がどこにもないと感じられた。世間はやたらと元気がよく、街並みは薄っぺらい書き割りのように見えた。日本全体を含む高度成長の思想風土がまだ普通に生きていた時代である。


小林秀雄が「モーツァルトのかなしみは疾走する。涙は追いつかない。」と書いたモーツァルトの弦楽五重奏曲第4番 k.516を聴くと、冷たい石の街路を想像する。あれは誰が聴いたって悲しみという感情とは少し違う種類のエモーションを表現している音楽だ。重たい空の下で屈託したり、呻吟したりする魂のような音楽。なぜ、小林はあえて「かなしみ」という言葉にこだわったのか。


モーツァルト:弦楽五重奏曲第3番・第4番

モーツァルト:弦楽五重奏曲第3番・第4番


暗く寒い冬の欧州で自殺者が増えるという話に恐ろしさを覚える今の自分は、年齢とともに明るさと暗さの見分けができる分別を身につけたのか、暗く重たいものへの耐性を失ったのか。どちらだろうと自問してみる。いずれにせよ、こういう写真を撮る瞬間には、この空を禍々しいものと見るのではなく、美しいと感じる感性が残っている。そう考えると少しほっとする。