村上春樹、『大公トリオ』

村上春樹の音楽エッセイ『意味がなければスイングはない』がものすごく面白かったという話を以前書いたが、これも別の日に書いたとおり、僕が彼の小説にのめり込むように読んだのは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』か『ダンス・ダンス・ダンス』までで、その後の春樹さんは、よくわかんない対象である。芸をきわめようとしているのは分かるが、彼にとって意味のある芸事が、こちらには全然どうでもよいことのように感じられ、いったい何がきわまっているのかがよく分からない。

生まれて二冊目の春樹ノベルとして『海辺のカフカ』を読んだ三十半ばの友人が、「それなりに面白かったが、なんだか気持ち悪い」という感想をブログに書いているのを読んだ。その気持ちは分かる。友人は、例えば15歳の主人公があんな大人びた発想をするだろうかという感想を、彼が感じた気持ち悪さの一つの例として挙げているのだが、それこそ春樹さんの突き進む芸事の世界の一つの例で、今の春樹さんにとっては十五歳の主人公がまるで二十歳過ぎのような大人びた思考をすることの不自然さは彼の小説世界の中の約束事としてはありなのである。かつての熱心な読者としては残念である。だって、かつての春樹さんの小説はリアリズムから遠い話を書いていても、「何だか気持ち悪い」と読者が言うようなはずし方は決してしなかったから。描かれた風俗を含めて、ぴったりと若い読者によりそってくれる感覚を村上春樹は提供してくれていた。時代も変わったが、彼も十分に変わった。それにしても、最初に読んだ村上春樹が『ノルウェイの森』で二冊目が『海辺のカフカ』では、くだんの彼氏になんと声をかけて良いか分からない。

村上春樹が変わってしまったという感想を抱く者にとって、しかし相変わらずの音楽に対する鋭敏さは昔からの春樹さんを彷彿とさせ、ハルキ作品に向かわせる一つのファクターであり続けると感じられる。音楽の話が出てくると正直ほっとする。『海辺のカフカ』では、『意味がなければスイングはない』の中でも取りあげられていたシューベルトピアノソナタ第17番、それにベートーヴェンピアノ三重奏曲第7番『大公』の2曲が重要な役割を担って登場する。とくに『大公』は登場人物の一人の心を狂言回しとして前向きに直進させるきっかけを与える曲として印象的な使われ方をしている。大公を聴いたことがない人でも、あれを読んで「いったい“大公トリオ”ってどんな曲だろう」と思わない人はいないはず。彼が音楽を使う時の芸の鮮やかさは、確実に物語がそれに乗って進む感覚を覚えさせられる点だ。『海辺のカフカ』のシューベルトベートーヴェンはまさにそう。これは彼が本当にこれらの曲を好きな証拠だと言って良いだろう。なかなかできそうでできない芸だと思う。

その反対の例として、また大江健三郎さんに出てきてもらおう。彼の『ピンチランナー調書』は大江作品の中で個人的にもっとも好きな作品の一つだが、その中にやはりベートーヴェンが鳴り響く場面がある。使われているのは弦楽四重奏曲の名曲第11番『セリオーソ』。全編にわたって喜劇性たっぷり、ハイでノリがいい(しかし一般に失敗作と言われることが多い)この作品の中でも、山場の一つ。二つの学生運動の党派がぶつかり合う集会会場の現場でスピーカーから突然大音響の『セリオーソ』が鳴り響くという設定である。しかし、大江さんの場合、それが『セリオーソ』でも、『第九』でも、『三百六十五歩のマーチ』でも全然関係ない。物語を音楽が統御することには決してならない。これに対して、村上さんは、ここぞというところでこの曲を出してきたなといった使い方をする。『大公』の明るさ、ベートーヴェンの持つ強さが、物語のトーンを形作る。もちろん、こうした音楽の使い方を「くさい」と感じる向きもあるだろう。

さて、その『大公』。ベートーヴェンのピアノトリオの中でもっとも有名な名曲についてなにをか言わんやだが、ほんとうにいい曲。だが、僕は弦とピアノの組み合わせが嫌いで、以前はピアノトリオなんて辛気くさいもの聴けるかと思っていた。実際、ピアノと弦楽器はまったく異なる音色のテイストを持っているから、音楽が決して融合しない。絡み合い、反発は容易にするが、決して一緒にならないピアノトリオの人工的な音響には長い間近づくのをためらうところがあった。室内楽の地味さの中に、あの組み合わせを考え、それで曲を作る人間の本質的な過激さが見え隠れするのがピアノトリオだと思う。

『大公』を聴くとしたらどの演奏が良いだろうと考えてみる。『海辺のカフカ』の中では、登場人物のトラック運転手星野君が、ルービンシュタインハイフェッツ=フォイアマンの“百万ドルトリオ”を聴いて感銘を受けるという設定になっている。戦後すぐの録音だが、当時のトッププレイヤーがタッグを組んだ演奏で『カフカ』の中ではこんな風に絶賛されている。

「当時は『百万ドル・トリオ』と呼ばれました。まさに名人芸です。1941年という古い録音ですが、輝きが褪せません」
「そういう感じはするよ。良いものは古びない」

今はさすがに減ったが、CD屋にいくと「『海辺のカフカ』で出てくるCDはこれ」という説明書きが必ずこのCDの前にくっついていた。村上ファンは迷わずこれを聴くべし。でも、如何せん音はよくない。なんといっても1941年の録音だ。
海辺のカフカ』で紹介されているもう一つの演奏はスーク・トリオのそれ。脇役の一人、大島さんがやっぱりちゃんと大公を聴いていて(というのがくさいが)、星野君にむかってこんな風に言う。

大島さんは言った。「僕の個人的な好みはチェコのスーク・トリオです。美しくバランスがとれていて、緑の草むらをわたる風のような匂いがします。でも百万ドル・トリオのものも聴いたことがあります。ルービンシュタインハイフェッツ=フォイアマン、あれも心に残る優雅な演奏です」


残念ながらスーク・トリオは聴いたことがないが、デンオンの録音で昔から日本では評判が良かったのは知っている。廉価版が1000円で買えるから、今度聴いてみるか。

僕の個人的な好みはアメリカのボザール・トリオの演奏。欧米でも日本でも名盤の評価が高い一枚で、優美さと強さが同居している名演だと思う。どれか一枚を勧めなさいと言われたら、今のところこれを挙げるだろう。
アシュケナージパールマン=ハレルという三人の有名ソリストを起用したEMIの盤は、現代版百万ドルトリオといった趣。これも評価が高い録音だが、三人の自己主張はあり、しかもきちっと弾かれているのに全体の盛り上がりは今一歩か。やはり有名ソリストを録音のために集めたプレヴィン=ムローヴァ=ハインリッヒ・シフの演奏も弱さが目立つ。やはり、トリオはチームプレイ。寄せ集めは辛い。
かの宇野公芳先生がカップリングの「幽霊」を絶賛していたアリスタ・トリオという若い演奏家のグループの演奏はなかなかいい。これはスピード感があり、ぐんぐん音楽が進んでいく。ただ、スピード感があるのはいいが、少し一本調子の気はある。ここぞというところで見得を切ってくれなきゃと感じる方がいるかも知れない。
ちょっと雰囲気が変わっているが僕が好きなのは、古楽器インマゼールビルスマらの演奏。ピアノが昔のハンマークラビアなのが他の録音とまったく異なる響きを作る。これを聴くと、実はベートーヴェン当時のピアノ・トリオは今の楽器で聴くほどピアノと弦楽器が対立していなかったのがよく分かって面白い。演奏は颯爽、骨太、雄渾。色気が足りないと見る向きはあるだろう。僕自身時にそう感じるから。力強いという点では、カザルス・トリオの名盤もある。

ともかく、室内楽、とくにピアノ・トリオは演奏によって微妙なニュアンスが全然違うのでそこが面白い。『大公トリオ』はとくにそう思う。どなたか、お勧めの盤があったらぜひ教えてください。