写真の奥の深さ

写真を撮って「こんなきれいな風景が撮れた」と自分自身がびっくりしてしまい、たわいもなく小さな感動を味わう。写真ブログをやり始めたおかげで毎週末写真を撮りに歩くようになり、そんな日々が続く。この感動は、今の自分の日常をしっかりと支えてくれている大きな要素なので馬鹿にはできない。生き延びるためには、あるいはもっと積極的によく生きるためには、どうしたって日々の小さなゲリラ戦をうまく戦っていかなければならないのだから。


そこでである。最近分かってきたことは、写真においてはうまく撮れたことにはあまり意味がないのではないかということだ。ここが僕自身の感じ方としては絵画と写真の決定的に違うところだという気がしている。絵画の場合、そこにフォルムを定着させる技それ自体に個性、つまり自分自身が大きく宿る。絵を完成させて、うまく描けたときには、だから自分自身の中にある未知の力を引き出せたような気がして感動する。言い方を変えれば、自分の力を引き出すプロセス自体、描いている途上に働く意識のありようが一種のドラマを形成する。


これに対して写真の場合には、多くのケースで思わずうまく撮れてしまう。カメラの性能が向上し、失敗も大した技術がなくても防げるようになったために、光を処理する最低限の原則さえ心得てしまえば、ある程度までの写真は誰もが撮れるのだ。撮った僕は「こんなにきれいな写真が撮れた」と感動したりするのだが、では、そこにその写真を撮った僕自身がどこまで反映されているのかと言えば、「被写体にカメラを向けた」以上の貢献はほとんどない。これはいま自分が撮っているアマチュア写真についてという但し書き付きの解釈だが、その限りにおいてはそういうものだ。


ここから二通りの道が枝分かれしている。「個性がある写真がよい写真である」という考え方(言うまでもないが、この「よい」は無批判に美しいという意味とは違う。「創造的である」という意味。人の能力や優れた感性の思いがけぬ発露に人が感動するという類の“よさ”)に立てば、シャッターを押すその瞬間ではなく、そこに至る以前のプランニング、仕掛け、それらを含めた戦略、もっと言えば撮る者の思想こそが問われることになるだろう。


もう一つの道は「多くの人が美しいと認める写真がよい写真である」という考え方だ。そのためには美しい風景のある場所に向かわなければならないし、美しいモデルを見つけてこなければならない。その瞬間を捉える努力をしなければならない。そしてその瞬間を美しさの中に閉じこめるシャッターや露出のテクニック、美しい画像を実現する写真機の性能と画質を追求しなければならない。よい作品を作るためには、「美しさ」をいかに表現すれば現代の標準的な感性に訴えかけることができるのかという課題に対するマーケティング的な感性が求められる。


僕自身の現在は、無意識のうちに後者の路線を(結果的に中途半端に)追いかけているのだと思う。そこが「これってほんとに面白いのかな」と思うことがある理由じゃないかともちらと考えたりする。きれいな写真をこれから撮り続けて、できてくる画にどこかで飽きてきたら、そこから本当によいものができるかどうかを問われる段階になるだろう。とりあえず飽きるところまでいけるかどうかが最初の一里塚ということかもしれない。