梅田さん、平野さんより我々の方が少しだけよく知っていること(『ウェブ人間論』をめぐる覚え書き3)


平野啓一郎さんは、匿名・顔なしを良いことに他人を不愉快にする類の情報発信をしている人達の存在に大いなる引っかかりを感じている。もちろん、賢明な平野さんは匿名はけしからんから止めた方がよいなどという言い方はしないが、こんなんでいいのかという気持ちは痛いほど伝わってくる。平野さんの問題提起が仮に当座は問題提起で終わったとしても、『ウェブ人間論』の読者とブログコミュニティに向けて、こうしたブログという新しいシステムの社会システムとしての瑕疵という視点を話題として持ち出すことの意味は小さくないのではないかと思う。

ブログにおける「実名・匿名」の議論における梅田さんの立場は非常に明快で、基本的には実名でも匿名でもいいじゃないかというものだ。とりあえず、不快なもの、自分にとって害のあるものは見ないという行動原理を個々人が持ちさえすれば、実名でも、匿名であっても、ネットを通じたコミュニケーションによって精神的な充実を得ることは可能である。その限りにおいて実名である必要はない。ただし、匿名だとリアルの世界へのフィードバックに難があるのでリアルの場で仕事をするといった実利に結びつけるところで弱みはあると梅田さんは言う。こんなところが梅田さんらしい功利主義的に鋭敏な物言いだと感心する。ともかく、そうしたデメリットも含めて匿名の情報発信を選択しているのだから、そのことに対してある種の理想を前提に否定的な見解を述べるのは賢明ではない、匿名でなければ情報発信をしづらい人たちの貴重な情報発信の機会をも潰してしまうことにつながってしまうと梅田さんは考えている。

梅田さんの匿名に対する肯定的な見解に対して、有益な情報を発信しているならば、例えば何故大企業で仕事をしているブロガーは匿名で情報発信するんだろう、リアルの自分を欺かないのならば実名でいいじゃないか、と平野さんが率直な疑問を投げかける。

もし仮に、現実社会での言動とネットでの言動が一致し得るのであれば、実名でかまわないじゃないかと思うんです。あるいは、彼の多様性がネット上で展開されているだけであれば。大企業にいる人がネットで実名で書いて睨まれるというのは、そこに齟齬があるからでしょう?
(『ウェブ人間論』p79)

この問いかけに対する梅田さんの反応は少々大上段に振りかぶったものになっている。

いや、そうではなくて、もっと予期せぬ何かを恐れるというのがあります。外務省元主任分析官の佐藤優氏が『国家の罠』で書かれたように、日本ってルールが急に変わるでしょう。(中略)日本って組織に原則がないんですね。大企業に長く勤めている人というのは、そういうことを熟知していて、リスクにものすごく敏感だから、よっぽど確信犯の人以外は匿名化するということだと思います。
(同書p80)

平野さんは、ご自身がこの本の中ではっきりと言っているように、会社勤めの経験がない人だから勤め人生活にまつわる人間関係や規範は必ずしもよく分からない。梅田さんはビジネスマンとしては一匹狼の色彩が強いコンサルタントであり、もちろん長年の顧客との付き合いである程度以上の知識や土地勘はお持ちとは言え、おそらく実感として抜け落ちているものはあるだろう。所属する組織の直接の影響力から自由なお二人には、組織労働者の気持ちはなかなか分からない(そういえば、『いぬのきもち』『ねこのきもち』という雑誌があったっけ)。おそらく、このやりとりを読んだ読者の多くが、初めて心くつろいで二人の知の強者に対する優越の微苦笑を漏らしたのではないか。「答えは俺に聞いてくれ」ってね。

そもそも上記の梅田さんのコメントは、かなりある種の限定されたブロガーを念頭に置いてなされている節がある。つまり、会社の仕事で培ったキャリアと知識を背景にかなり専門性の高い情報をブログで発信しているような人たちにずばりと当てはまる解説ではないか。ITエンジニアがオープンソースの話題を取り上げ、彼の秀逸な見解をブログで語れば、「仕事で得た知識を仕事以外で流用している」と目くじらを立てる者は出てくるかもしれない。かもしれないではなくて、それは十分想定し得ることだ。

しかし、そのような会社にとってもクリティカルと取られかねない情報発信をしている人たちばかりではなく、匿名は大多数の人たちにとってはここちよい当然の選択なのだ。それは何故か。そのここちよさの中心にあるのは、つまり自らの生活を取り巻く顔見知りの人たちに対する匿名、ということではないかと僕は考える。いったんネットのことを忘れて考えてみれば自明のことなのだが、オフの時間の自分を必要以上に会社の上司や同僚、その他の知人にさらしたくないと考える人は圧倒的に多数ではないだろうか。もし、この問いに対する答えがイエスであり、その日常的な指向の延長線上にネットでの匿名が選ばれると解釈すれば、これはあまりに自然で議論の余地もない選択だと思えてくる。

実はこの感想は自分自身の経験が直接の下敷きになっている。やはり発端は梅田さんなのだが、前々回のエントリーで書いたとおり、会社の講演会に梅田さんに来ていただいたときのことを僕はこんな風に書いた。

■梅田望夫さんにお会いする(2006年7月28日)


それを梅田さんが彼のブログで取り上げてくれて、本格的に書き始めたばかりのこのブログに初めて千人を超える人が押し寄せる経験をした。勤め先がIT関係の会社である以上、梅田さんのブログを読んでいる人たちはそれなりにいるから、アクセスログを後でチェックすると自分の会社のドメインからわんさか読みに来ているのが分かる。翌々日には上司から「中山君のブログのことが会議で話題になっていたよ。役員の○×さんも読んでたらしいよ」てな話を聞くはめになり、あちゃーと思ったのだが、その話を昼休みに一緒に仕事をし、ブログの経験もある若手数人におしゃべりしたら「いやーっ、ばれちゃいましたねーっ」と、人間、他人の不幸をこの目で見るのは最高の快楽の一つだ言いたげな満面の笑みである。その時、自分の心の動きと彼らの顔とを重ね合わせながら、そうか、みんなばれたくないのかと一つ新しい勉強をした気分になった。これは必ずしもそこが大企業だから、ということではないだろう。

そもそも一昔のサラリーマンのイメージとは違い、今日の勤め人はそれなりに自分の趣味の時間、人によっては副業の時間を大切にし、その日常は自分を中心にして『ウェブ人間論』の言葉を使うと多かれ少なかれ複数の"島宇宙"に所属しながら生きている。仕事以外の島宇宙での行動については、あまり会社の中で云々されたくない。そもそも、ずばり梅田さんが言うとおり、個人の権利が組織に優先して尊重されるという合意が社会に明確に存在しないのだから、必要最低限の情報しか露出させないのが生きる上で安全性が高い方法である。慎重な人たちは自然とそう考えるような社会構造が存在している。ブログの匿名性はこうした社会構造と、それに呼応する個人の行動原理を素直に照射しているのだと考えられる。

ちなみに実名を明らかにしている僕の場合、自分の勤め先のことは書かない、仕事関係の話題は取り上げないという方針を採用している。仕事の一環だった梅田さんの講演会について書いたことは、今のところ僕にとって例外中の例外である。それを考えると、やはり梅田さんが『ウェブ人間論』で書いていたとおりで、こと会社に対する限り自己規制の意識はかなり強く働いているのである。そこからさらに思うのだが、僕のように強大な"帝国"の悪口は避けて、趣味の話に話題を絞りながら実名の情報発信をする人たちが増えてきても良さそうな気がする。でも、そのメリットは何だろう。ないか。

そんなこともない。今のところ、実名のメリットとしてうっすらと感じるのは、ある種の読み手に対して、実名であることの安心感や信頼感を与えることにつながっていると思われる点である。これは曰く言い難い部分なのだが、ブログを契機に今まで知り合う契機が存在し得なかった人たちとの交流がリアルの世界で広がってきた。そんなやりとりの際に、僕が実名で露出をしていることの相手に与える安心感をそれとなく感知できる、ような気がする。そんな実名派が一人二人と増えてくれば、それはそれでブログ全体に対する世間の安心感の増大、地位の向上というものにつながるのではないか。

幸い、ブログの存在が会社で"ばれる"ことによって意地悪な目に遭うようなことはまったくなかった。ある管理職が自分と趣味が同じであることを「読みました」メールで教えてくれ、その人との距離が縮まった気がしたという幸運に巡りあいこそすれ、マイナスのリアクションに出会ったことはない。むしろ、自分の中にある組織への過度な恐怖感を実感し、ある部分それを払拭する契機になったとも言える。これは単に運が良かっただけかもしれないが、恐れているだけでは前に進めないという人生訓めいた感慨を獲得する契機にはなったような気がする。

というわけで、匿名による情報発信を肯定するべしとする梅田さんの立場に僕は賛成する。と同時に、匿名をいいことにした、場合によっては名誉毀損に該当するであろうブログならではのモノの言い方に対する平野さんの危惧、これにも大いに共感する。その上で、やはり梅田さんの次の発言に僕自身は「まいったなあ」と思ったことだ。

梅田:(匿名ブログ上での発言が)過激になる傾向はありますね。ただ僕は、そういうことも含めて、あるネット上のコミュニティにおける善意と悪意とでは、どんなに悪くても五一対四九くらいで善意が勝つ、だから何とかなるんだ、という感覚を実は持っているんです。
(同書p91)

梅田さんのこの発言、人間に対する愛の告白として相当に格好よくないか。「人間捨てたものじゃないんだよ」と思う瞬間、自分の中から力が湧き上がる感覚ってあるじゃないですか。『ウェブ人間論』の数ある名セリフの中でも出色のコメントだと思う。

「だから全部を見て傷ついたりするよりは、自分にとって悪いもの、不必要なものは見ない。そうやってネットリテラシーを育てていくしかないのだと思います」
(同書p112)

本当にそう。ブログの恩恵にあずかりながら、そのマイナス面の毒を避けるためには、情報の取捨選択に向けた本人の決意と努力が必要だ。もっとも個々人の心構え、あるいはこの対談のとりあえずの結びはそれでよいとしても、システム自体の問題としては「耐える力、無視する力が重要だ」というだけでよいはずがない。それは明らかに社会システムとしてのブログの不健全さ、未熟さの表現である。リベラルなイデオロギーにバックアップされているブログだが、「市民による発言は善だ」という前提が「内容の如何を問わず発言を行うことは善だ」、すなわち「発言をブロックすることはそれ自体忌避されるべき行為だ」という極端な発想に行き着くことになれば、それはもう一つの教条主義に支配されている状況だと思わざるを得ない。バランス感覚が働いている例として、例えば茂木健一郎さんは、彼のブログ『クオリア日記』で、コメントやトラックバックに対し、ただでさえ忙しいのに「承認・公開」の手続きを踏んでいる。至極真っ当なセンスだと思う。