土門拳、写真批評、丸谷才一の吉田秀和評

このところ中年の手習いで写真集をちょっとずつ見ている。きっかけはこの秋入れあげた橋村奉臣さんの展覧会である。写真の面白さを少し分かったと言ったらこれはこれで言い過ぎで、橋村さんの写真には写真の技法的な可能性をぎりぎりのところまで追いつめながら、それでいて写真という表現手段の枠を超越した視覚芸術における普遍的な物語性を獲得しているところがある。それがとても印象的で、きっと写真には僕が見ていなかった何かがあるのではないかと思い始めた。


12月になって、土門拳木村伊兵衛の写真集をめくったり、土門拳のことを書いた伝記的作品を2つほど読んだりした。その上で、また、図書館に置いてある彼の写真集を間歇的に眺めたりともしている。何だか不思議なことがいっぱいある。木村や土門の時代には米国のライフに作品を掲載してもらえるのが大きな名誉というか、業績だったりしたことであるとか、相当の自己研鑽を積んだとは言え、業績的には大したものを持っていなかった若い土門が圧倒的なエネルギーで大家への道を歩むその進み行きの面白さと同時に、あっという間に一流と言われる域に上り詰める写真界の底の浅さであるとか。さらには、徒弟制度の伝統をそのままに弟子をこき使う土門の姿であるとか、海外とはどうも綺麗に切れていた当時の写真界の様子であるとか。


それにしても、土門の作品を見ると、月並みな感想だが日本を感じる。土着的なにおいのする土門の写真に日本を感じる自分の感性を、まるで第三者のそれを初めて確かめるように眺める契機になったのも面白かった。今見ると、自分が生まれた頃の写真がとてもとても昔の風俗を写したものに見えてしまう。そのくせ、見ていると最後には、ちゃんと懐かしいという気持ちが湧き上がってくるのである。


また、現代の若手の手になる写真評論を二冊ほど読んだ。ほとんど斜め読みだが。そこでびっくりした。写真の評論って生まれて初めて読んだのだが、これが写真評論のスタイルなのだろうか、二作ともに写真のことを語るのではなく、写真に仮託して社会論を語っているのだった。資本家による収奪だとか、フェミニズムだとか、そんな話題が先に立って、写真はその先にというか、後でというか、おまけにように登場する。写真を語るというのはそういうことなのだろうか。僕には大いに違和感が残る。これは違う。僕だったら、違うアプローチを取る、という率直な感想が残った。いや、たまたまそうした色の付いた評論にあたっただけかもしれないが。


mmpoloさん(id:mmpolo)から朝日新聞に掲載された丸谷才一のエッセイ『「吉田秀和全集」完結」のコピーをわざわざ頂いた。僕が愛読する『mmpoloの日記』を偶然に見つけるきっかけになったのが、この丸谷才一さんによる吉田秀和さんのエッセイの話題。『mmpoloの日記』でその記述を見つけてトラックバックをしたのが馴れ初めだから、個人的には感慨がある。2004年11月9日の掲載。「現存する日本の批評家で最高の人は吉田さん」という丸谷さんの見立てについて、そう考える所以を文章にしたものだ。難しいことを全然言わずに神髄に迫るよい文章。とんちんかんな写真批評の読後感を一つのエッセイが綺麗に流してくれた。


音楽会で、二、三度に過ぎないが吉田秀和さんのお姿を拝見したことを急に思い出した。一度はドイツ人の奥様も一緒で、二人でドイツ語の会話をしていたっけ。あのお年では目立つ長身。実に綺麗な姿の方だった。