ブログを書いているだけでも個人と社会の関わりは容易ではないなと思う


実名で会社員生活を生きる。実名でブログを書く。実名でその他諸々を活動する。ということになれば、ブログに関して言うと、滅多なことは書かなくなる。ワタクシのブログはだからつまんないとは自分自身思うけれど、無責任な物言いはしなくなるということも、また事実で、これは大切なことだと思っている。もちろん、ハンドルネームで書いても理性的な発言をできる方はいらっしゃるのだが、僕がそれをやったら、感情の起伏が前面に立って、あっという間に節操のない文章が氾濫することだろう。

2ちゃんねる、あるいははてなブックマークもそうだが、匿名で意見を表明できる場が提供されると、そうした制度が存在しなければ決して表に出ることがなかった人間の本音、隠れないと出てこない悪意の発露のオンパレードとなってしまう。日本というシステムの中では、結果的に実社会生活が表で、こうした匿名電子媒体が裏でという役割分担になってしまう。これはシステム自体がそれを求めているからだと思う。ガス抜きの機能をつくり、社会全体にはできるだけ変更を加えずに、従来通り安定して回ることを指向している。そんな風に見える。

しかし、先日読んだ藤井直敬著『つながる脳』には、社会を作る大きな要素は、社会的関係が下位の個体の振る舞い方である可能性が小さくないことを示唆する実験結果が紹介されていた。「与えられたシステムが悪い」という言い方をしているだけでは、単なる責任放棄の言い訳に過ぎないということになりかねない。人間の本性なんて、洋の東西で変わる訳がないのだから、匿名の場所で無責任な発言が増えるのはおそらくどの社会でも変わらなはずだ。しかし、なんだかおかしいと思ったときに、それに対してどのように判断をし、どのように対処をするかについては、社会のありようでかなりの差異が出てくるのではないかと思う。社会を変えようとする意思、社会にコミットメントをしようという個人の意思のあり方の問題。我々の意思が社会をつくっているという事実にあらためて思いをいたす。システムとはそういうものとして存在している。

というようなことを考えると、システムの中で自分が係わっている末端の部分で、どれだけちゃんと仕事ができるかが問われているということになるだろう。日々の仕事の場だとか、家庭だとか、ブログ書きだとか、そういう普通の場所での、普通の個人の物語が社会と呼ばれるものをつくっているのだと考えると、一人一人の責任は重大なのだ。