一つの枠を出て別の枠を体験する

ウィーンの空港から重いスーツケースをよっこらしょっと電車に担ぎ上げて重たい曇り空の下を都心に向けて電車が走り出すと、駅に止まるたびに乗客が増えてくるのだが、日本とは違って人語が少しも増えていかない。皆半で押したような寡黙を守り続けている。ウィーンや、その他のドイツ語圏ではそうだったなと思い出すのに時間はかからないのだが、知識とは異なり、感覚は正直に違和感を発出する。都心の駅に降り、それは帰宅時間の午後5時となれば、それなりの人の波があるのに、音の低い状態は決して変わらない。誰もが声を発せず、時に連れのある人々が小声で何かを囁く。東京の通勤電車の中でも人は寡黙だが、それとは違う、異質な音のなさ。

内心まごつき緊張したのは、しかし初日だけで、2日目からはそれが普通のこととして気にも止まらなくなる。人の感覚の順応は実に早く、どうしてそうなのかが理屈では説明できない。いったん慣れてしまうと、それは当たり前のことであって、時々外国の観光客がフランス語や、英語や、ロシア語や、韓国語や、中国語でざわめいているのがやたらうるさく感じられる。そして、そのうち、それも観光都市ウィーンの日常の一部であることを理解し、慣れてしまう。

日本のニュースをウェブで読むと、元総理大臣が日本人は洗脳されていいると語ったことがあちこちで取り上げられている。思い切った言い方をするおじさんだなあと面食らうのは他の皆様と同様だが、あながち間違ってもいないよなとは思う。だいたいにおいて社会とは洗脳の仕組みであって、洗脳の事実にいったん気がつくと、生きるのはそれなりに難しくなったり、反骨の気概が沸き起こったり、まあいろいろと。大企業なんて、相当重たい洗脳の仕組みで、やれやれにもほどがあると、この数年はいらいらが募っていたので、別にマスコミの報道がどうのこうのというだけではなく、考え方の掟、生き方の掟みたいなものは生きている限り、その場所で発生するのが自然の理と納得するしかない。そうであるが故に、どこで生きるかは最後まで大きな問題として付きまとう。

旅行の楽しみは、もちろん名所旧跡めぐりや美術品鑑賞も楽しいけれど、日常の掟の枠の外へ擬似的、一時的に出てみることにある。海外旅行はその効果の程度がやはり大きいなあと感じている。

今日はこれからネットが通じない場所で二晩を過ごしに行きます。