安全の話

僕が子供の頃にイザヤ・ベンダサンが「日本人は安全と水はただだと思っている」と書きました。自宅から歩いて10分の公園に死体が遺棄されるという現実に直面して、僕は大いにショックを受けているのですが、それが地方紙の埋め草記事程度にしかならない、誰も話題にしている風ではない事実にはそれ以上に困惑を感じています。

僕はあらためて思いました。ベンダサンは「日本人は安全と水はただだと思っている」と書きましたが、それは間違いで日本人にはもしかしたら「安全を○○と思う」という機能自体が欠落しているのではないか。ただだとか、高いとか、そういう風に自分を維持するための投資の対象と考えられもしないし、それどころか、安全という観念に関して何かが欠落しており、真面目に考えることができない、そういうところがあるのではないかと思うのです。

近年あちこちで聞く「茹でガエル」の比喩がここにも当てはまりそうです。カエルはお湯の中に入れれば「あちっ!」と飛び出すが、水をゆっくりと沸かしていけば危険な温度になりつつあることに容易に気がつかず茹でられてしまう。身体的な安全に関しても、我々日本人はそうした過程にあると考えるのは、ある意味で不愉快な仮定ですが大きな間違いではないように感じます。

ニューヨークの街中で現地の住人は絶対にしないような行動を日本から来たばかりの日本人はとります。夜半のヤバイ道を一人で歩いたり、割り勘の精算を路上でしようとしたり、通行人との距離を意識しなかったり。同じ東アジア人の中国人や韓国人の振るまいがどうなのか、あまり意識したことがなくよくわかりませんが、路上においてリスク意識の欠如している数人を見かけたら日本人と考えて7割方正解はとれそうです。駐在時に日本から来る出張者を迎えることが多々あったのですが、何度かスリで警察、エド・マクベインの小説に出てくる○×分署という場所でお世話になりました。東京から着いた夜の10時、飲み屋から出てきてほろ酔い加減で歩いているときに紳士に声をかけられて、翌朝気がついたら財布がなかったという類の話ですが、そんな人は間違いなくそれはまずいでしょうと思うような行動をしている。もっと言ってしまうと、狙われそうなタイプです。プロは素人を、狙いやすい獲物をカモにするのですね。それこそがプロのプロたる所以なのでしょう。

日本がアメリカの状況に近づいているということを考えると、してはいけないこと、反面教師となることはいくつもあります。残業をして少し遅い時間になると駅から我が家に至る道すがらは暗がりに支配されますが、そんな時間帯に若い女の子が平気で一人で歩いている。安全と水はただだと思っているというか、何も考えていないのでしょうけれど、それはヤバイと思いますね。俺が襲ったらお嬢ちゃんアウトだぜ、というシチュエーションなんですから。あと、人との間隔を意識していないのも恐い。気をつけるに越したことはありませんよ。なんたって、歩いて10分の公園に死体が落ちている時代ですから。


日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

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