日本のスポーツ記事の見出しを見て思ったこと

大谷翔平選手の活躍が大いに話題になっている。今もNHKが夜10時のニュース番組『クローズアップ現代』の枠で大谷選手を取り上げていたのを見たばかり。アメリカの新聞記事電子版を見ても大谷のニュースはここかしかにあり、日本人選手への注目の度合いとしては、すでに過去のあらゆるケースを超えているかもしれないと思えるほどだ。

お調子者の野球ファンとしては、アメリカの記事も、日本のヤフーなどの記事も片っ端から読んでみた。だいたい日本の記事は「アメリカのメディアがこう言っている」、「選手がこう言っている」という、ある意味お定まりの海外スポーツ報道のスタイルで、最初にアメリカの記事を読んでしまうと、それらに書かれていることばかりなので、どうしても二番煎じの感があり、あまり面白いものがない。

ところが、一つ気を引かれた見出しがあった。それがこれだ。

『日本流の技術で打った初ホーマー。大谷翔平が真に全米に迎えられた日。』(NumberWeb;2018年4月4日)
http://number.bunshun.jp/articles/-/830400?utm_source=headline.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=directLink


「日本流の技術で打った」というのは具体的にどのような技術なのか。それはアメリカ人の記者には絶対に書けない視点だと、期待して記事を読むと、しかしそれらしい記述が見当たらない。いつもの斜め読みが災いしているはずだと、もう一度読み直すと、つまり日本の記事ではあちこちで紹介されている事実である開幕直前でのバッティングフォームを改造が記事の中心的なトピックとして紹介され、「自分の中ではスタイル的には大きく変わってない」という小見出しとともに大谷の次のようなコメントが紹介されている。

「長くボールを見ることができてるんじゃないかと思います。(フォームは)見た目には大きく変わっていますけど、多少、動きを省いただけ。スイングの軌道を変えたりとかはしていない。
 自分の中では、スタイル的にはそれほど大きく変わってはいないんですけどね」

足の上げ方は変えたが、本人の意識としては、それは大きな変化ではないと語る部分が、デスクによって「日本流の技術で打った」という見出しにされてしまったということのようなのだ。なんともはや。

私はかれこれ10年もブログを維持しており、時々マイナーな媒体に記事を書いたり、勤め先の広報誌を作ったりしているが、いつも思い続けているのは見出しを付けるのが下手だということだ。つまりセンスがない。それは「見出しをつけなければならない」という意識とともに、あらゆる記事を書く毎に感じる引け目である。

センスがある者は、人惹きつける見出しを作り出す感性と技術を身に着けており、あちこちの記事に書いてある大谷のバッティングにおける踏み出し方の改善の話から、本人が「変えていない」と言っている事実に着目し、それはつまり、日本で高校野球プロ野球のファイターズで教わった技術を基にした「日本の技術で打った」のだという見出しを創造する。本文にはそれらしい記述はまったくなく、著者には「日本の技術」が頭にあったとは思いにくい。そこに魔法のスパイスがひとふり。「日本の技術とはなんぞや」と私のような獲物はすぐにそれに引っかかる。大したものだと思う。

私が見出しを付けるのが得意ではないという話はここまでで、本当に言いたいことは、取材で獲得した事実を無視した、あるいはテキスト本文の内容に無用の尾ひれを付ける見出しは嫌いだということだ。何故ならば、それは見出ししか見ずに本文を読まないものに確実にある種の間違った印象を与えることになるし、テキストを読む者にも、場合によっては間違った読み方へと誘導する危険性を含むからだ。テキストの内容を超えてサムシングを盛る見出しづくりは週刊誌やスポーツ新聞の得意技だが、それをするか、しないかで、その媒体は自らの立ち位置を明らかにする行為を行っているということは間違いない事実だろうから、真面目な記事には、天から降ってきた「日本の技術で打った」は要らない。

これはたかだか野球の話だから、そんなこと面白おかしければいいのだという意見は強くあるだろうが、大谷選手の個人的な能力や努力や創造力を、「日本の技術」という表現にわざわざ置き換えてバンザイする姿勢は、ちょっと精神的に軽すぎるし、要らぬおせっかいで気持ちの悪いものを感じる。アメリカの記事は大谷個人の凄さを問題にしているが、日本の記事は、基本は米国同様、大谷個人の並外れたこの力を取り上げつつ、すきあらば、我が日本人であるところの大谷を問題にしたくなるようである。後者のスパイスがちっとした味付けであったり、程度の問題であればいいのだが、日本人の意識や社会規範の寄って来るところにある集団主義と、自分たちが他者・他国との関係でどのような地位にあるかを常に問題にする序列意識が、海外で活躍する日本人スポーツ選手に対する記事のレシピには素材として明記されているようで、それが日本人の大好きな味付けなんだということは分かって入るが、大谷選手個人と私たち日本人共同体のもたれ合いを当たり前のものとした記事の書き方はせずに、「大谷という個人がすごいのである」という記事を書いてくれるライターが増えて、そんな記事を私は読みたいと思っている。