お盆の時期のわたくし

今年は留守番に近い仕事を引き受けたので、お盆休みの今週も出社しないわけにはいかなくなった。でも、まあ冷房の効いた場所でのんびりとしながら、しばらく放っておいた企画の謀をするのも悪くないなと思っていたら、その留守番の関係で予想をしていなかった仕事が発生してしまい、思いがけず気分的にあわただしい数日を過ごした。なんとか片が付いてほっと一息。


極端な言い方をすればだが、社会集団の一員としての自分、あるいはもっと気宇壮大に、個体を超越した生物種の一員としての不滅に貢献することを運命づけられている自分に思いを致す気分の時間と、まったく逆にここにこうして存在する実存的存在としての自分を奇妙に意識する時間とが、生活をしていると交互に明滅して意識の上に現れる。


お盆の時期というのは面白いもので、宗教的な社会規範が突如としてスイッチオンになり目に見えて動き出す期間だから、その意味で家族集団の一員としてのわたくし、故郷の血縁としてのわたくし、同じ宗教観を共有する日本人としてのわたくしを当たり前のように意識させられる。かと思えば、世の中はスケジュールに則って動いているけど俺は変わらんなあ、俺は俺であることを自らの主体性で選び取っている部分があるなあとそこはかと感じる部分も、ある。


意識する、しないに関わらず人を内省的にする仕掛けがこの時期にはあるなあと思う一方で、高校生の我が子を見ているとそんなのは遠い国のお話ですという雰囲気だ。世代の効果だろうか、それとも単なる年代の効果だろうか。はたまたそれは単なる個体差で、お盆の雰囲気は次の代も次の次の世代もそれ相応のやり方で受け継いでいくのかもしれない。ただ、宗教的なものへの感受性が何に宿るかはよく分からないし、もっと歳を取ってから「昔はよかった」というつもりもないとは、一応自分自身に向けては言っておきたい。