佐藤優著『国家の罠』を読む

佐藤優の著作は多くの人が褒め、ブログでも「面白い」というコメントを多数見るが、これといった理由もなく一冊も手にしたことがなかった。『国家の罠ー外務省のラスプーチンと呼ばれて』が文庫化されたのを横浜の有隣堂で見つけてようやく読むことになった。

“外務省のラスプーチン"と呼ばれていた佐藤優が、同省をめぐる一連のトラブルに連座するかたちで役所を追われ、鈴木宗男とともに逮捕された一件は新聞が伝える範囲である程度の知識がある。その後、釈放された彼が『国家の罠』以降の著作を発表し、なんだか悪者扱いされていたはずなのに、オセロの駒をひっくり返すようにマスコミ、インテリの支持が広がっている様子もなんとなく見聞きしていた。『アエラ』に特集されているのも読んだし、この1、2年の間に、この人の書いたものが書店の棚で増殖を続けているのも知っていた。

それだけ気になっていながらも今まで読む気にならなかったのは、なんとなく内容が読めてしまうような気がしていたからだ。スパイ小説もどきの内容で、我々庶民が知らない諜報の世界の日常生活、政官界の裏事情が書いてあって、読んだら「あー、面白かった」となるんだろうな、きっと、と想像が先に立ってしまう。それはそれで興味深いには違いないが、急いで読むこともあるまいと考えた。そう言う意味での面白そうな本はけっこう待ち行列に入っているので、手に取るのが延び延びになった次第だ。

まだ、読みさしの状態でこれを書いている。ページで言うと半分くらいかな。日本をめぐる国際情勢に関する話、霞ヶ関と永田町の生々しいやりとり、佐藤さんのロシアや日本政府の要人を相手取っての七面六臂の活躍、マスコミとのさや当て、それぞれに読み応えがあるエピソードが複雑に絡み合いながら、めまぐるしく展開される様子はローラーコースター・ムービーを見ているようだ。本書の山になるであろう検察との対決が出てくるのはまだこれからなのに、そこに至るまでにこれだけ楽しませてもらえれば、これはずいぶんと安い買い物である。

外務省という意思決定のシステムの中で、まるで社内ベンチャーのように自在に動き回るノンキャリア官僚の佐藤さんという存在に対し、組織の体勢が、大いにその存在を煙たがっているさまが手に取るように見える。佐藤さんの失脚を、組織の論理に従順であることよりも国家の安全保障に殉じることを選んだ個人の悲劇だとするならば、組織はその目的に対して最適な構造を獲得していないということになる。

それにしても、これを読んでいると、そりゃ外務省がどんなところか知らないが、同じ日本人が作っている組織なら、そんなことしちゃ反感買うだろうな、と思わず言いたくなるような記述があちこちにある。この人、きっと周囲からすごく浮いて見えていたんだろうなと思う。佐藤さんは、自身の理想を形にする方法が他にあるならば、例えばベンチャーの社長となって動き回るべき人だ。一般の実業の世界と違って、悲しいかな外交を司る組織は外務省を置いて他にない。我々ふつうの職業人にはそんな自由も与えられているとあらためて思う。

描出されているのは日本の安全保障をめぐるシリアスな物語である。それによって我々の日常が大きく影響を受ける国際間の最前線の戦いの報告なのだが、あろうことか僕自身はそれを明らかにエンターテイメントとしてのみ楽しんでいる。そこまでしか自分自身の想像力が届かないということに気がついて、ちょっと恐ろしくなるのである。英国のスパイ小説は自分に関係ない外の社会の出来事として楽しめばよい。多くは過ぎ去った過去の話でもある。しかし、『国家の罠』はスパイ小説ではない。それにそれによって我々自身の安全に直接影響がある、政治をめぐるノンフィクションなのである。普段、それなりにいろいろなことを分かっているような気がしているが、自分が感知できている社会のありようなどたかが知れているということだ。

ここまで書いて、待てよと思う。そもそも、知りたいことと知りたくないことを意識の俎上に登らせる前の段階で選別している自分がいるのではないか。『国家の罠』の自分自身の生き方に直結するシリアスな局面を僕は最初から無意識に無視している。この許容できる枠、情報の入れ物としての自分をもう少し、もう少しと大きくする意識を持つことが自分自身にとってとても重要なことなのではないか。
そんな読書になるとは思ってもいなかっただけに、思いがけない気づきを与えてくれた本書には感謝をしなければならない。