梅津時比古著『冬の旅 24の象徴の森へ』

シューベルトの歌曲集『冬の旅』がお好きな方なら、梅津時比古著『冬の旅 24の象徴の森へ』はぜひお読みになるべきだ。昨年11月に刊行された同書は、『冬の旅』に作詞者のミュラーと作曲者のシューベルトが込めた意味・思想を、24の曲に込められた24の象徴を読み解くという形式で明らかにしようと試みたもの。文章はとても読みやすいが、内容的には研究書に近い性格が強い一冊である。第一曲『おやすみ』からは旅、第二曲『風見鶏』からは雄鶏、第三曲『凍える涙』からは涙という風に、それぞれの曲の中心的なモチーフを取り上げて、それらの“象徴”が当時のドイツの社会空間の中でどのような意味を持っていたのか、ミュラーはそれを如何に文学に消化し、シューベルトはそのミュラーの原詩に何を見ようとしたのかを読み解いていく。

例えば。「風が風見鶏と戯れている/僕のあの娘の家の上で」で始まる『風見鶏』について、梅津は、風見鶏がキリストの受難の物語の中で有名な「ペテロの否認」につながっていることに注意を喚起する。バッハの『マタイ受難曲』でも印象的なこのエピソードについては、先日くまさんがブログの中で取り上げていらっしゃったところだが、ドイツではこの聖書の物語から教会の風見鶏へとはまっすぐにつながっており、誰もがそれを良心の象徴として捉えているのだそうだ。したがって、その風見鶏がくるくるとまわって一つの方向を示さないというのは、『冬の旅』で主人公が失恋する女性の日和見を示している。そのように梅津は述べる。

取り上げられる象徴が持つ意味解釈の自明性は、この風見鶏のように、日本人には説明をしてもらわないとぴんとこないがドイツ人ならごく当たり前にように分かるというものから、歴史的解釈、アーティストの直感に支えられて初めて読み解かれるものまで、そのレベルは様々である。梅津は、様々な専門文献の読解とディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウを始めとする一流アーティストへのインタビューを踏まえて、一見すると感傷的な青年の失恋物語である『冬の旅』に流れる深い物語をあぶり出そうとする。その志に共鳴しつつ読む限り、本書は知的冒険の書として大いに価値がある。僕にとっては知らないことだらけで、読むたびに新しい感興を覚えるようだった。

最終的にミュラーの意図をシューベルトがどう読んで、それを音楽的な象徴に高めるためにどのような工夫を加えているのかという視点で書かれているが、明らかに主要なモチーフは曲の文学的、歴史的解釈であり、楽曲分析としての記述はそれに比べると薄い。だからと言って、本書の価値が減るわけではない。シューベルトの音符の解釈は、本書を読んだ後にそれぞれが試みればよいだろう。

本書が行う様々な解読のなかでもっとも刺激的な部分は、『冬の旅』がキリスト教の神を否定する方向へ旅を続ける物語になっているという指摘である。ネタバレになるので、これ以上の言及はしないが、シューベルト好きのみならず、西洋史に興味がある方にも面白く読めるのではないかと思う。ただ、本書の性格上不可避ではあるのだが、つどドイツ語への言及がなされるので、その点で一般向けの書籍としては読みにくいところがある。『冬の旅』のみならず、歌曲では詩と音楽とが等価だから、詩が読めないと面白さのかなりの部分から見放されることになる。だから歌はいいんだとも、不純でいやだとも言える。この本も、そうした前提の中で作られている。

冬の旅―24の象徴の森へ

冬の旅―24の象徴の森へ