ノット指揮東京交響楽団のストラビンスキー、バルトーク、ベートーヴェン

一昨日はジョナサン・ノット指揮の東京交響楽団で、ストラビンスキーの『管楽器のための交響曲』、ラーンキをソリストに迎えてバルトークの『ピアノ協奏曲第1番』、とりにベートーヴェンの『運命』というプログラムを聴いてきた(7月16日・サントリーホール)。

去年2度、このコンビの演奏を聴き、今年もこれで3回目。となると、どういう種類の演奏が期待できるかが聴く前からそれなりに予想できるようになってくる。3曲ともに、その予想の範疇で動くので、もう無闇な驚きはないのだが、その分、ますます今日はどうなるのかという細部への興味を含めて、聴衆としてはさらに音楽に集中できるようになってきた。

『運命』が湧いた。指揮者が解散をコンサートマスターに合図して舞台を降りた後に、残された団員に対して盛大なブラボーが飛んだコンサートというのは、自分の体験としては覚えている限り初めてのことだ。それは十分に故あることで、メリハリの効いた、若々しい、推進力のある運命だった。メリハリがあったというのは、単に元気がよいというのではなく、例えば、同じフレーズが繰り返される場合には有機的なクレッシェンドがかかり、フレーズが変化していく、あるいは発展していくさまがはっきりと見える。また、第2楽章や第3楽章の、弦と管との掛け合いでは、弦に呼応する木管が普通聴くのとは少々異なる息の長い尾を引いて浮かび上がる。運命自体が、運命の動機の発展していく様を見せる音楽だとすると、音が発展する様、それはとりもなおさずリスナーに時間が動いている様を意識させるということになると思うが、そういう意識が惹起させられるという意味で、よく練られた、メッセージ性の高い『運命』だった。

この1年間少々の間に、ノット+東響でシューベルト、二つのブルックナーベートーヴェン、あるいはマーラーリヒャルト・シュトラウスを聴いたが、こうした独墺系の音楽に関して言えば、ノットの志向する音楽は伝統的なドイツやオーストリアの職人系指揮者が振るのとは異なる音楽になる。例えばブルックナーだと、前任の東響音楽監督だったスダーンの方がブルックナーらしい響きを作るかもしれず、伝統的という意味では、数年前に新日フィルで聴いたハウシルトの8番などはいかにもゲヴァントハウスなどの東欧のオケが鳴らしそうなくすんだ音が「いかにも!」で、本来あるべき姿を見せてもらって嬉しくなったりする。

そうした指揮者に比べると、ノットの解釈はもっと伝統に対して自由で、そうした意味での重たさから解放されている。実際、6月に聴いたリヒャルト・シュトラウスの『メタモルフォーゼン』やブルックナー交響曲第7番は、全体的にはオーソドックスな仕上げだが、ノット特有の軽みとメリハリが乗っていた。この日の3曲も同様で、きちんと分析され方向付けられた企画書に従って、しかし音楽的に自然で血が通った演奏をオーケストラの演奏家と一緒に作るという方向がはっきりとみえる。うまくいけば聴衆は納得し、指揮者もオケの皆さんも楽しそう。そんな演奏会になる。

そういう風に見ていくと、ノットはイギリスの指揮者であるとをあらためて意識しない訳にはいかない。ビーチャム、バルビローリ、コリン・ディビス、マリナー、ホグウッド、ガーディナーノリントン、ラトル、ハーディング。コリン・ディビスやマリナーは独墺系の曲のオーソドックスなレパートリーのイメージが強いが、イギリス人の創意工夫はシベリウスを世界市場に連れ出したり、古楽の一般化に貢献したり、古い枠の中で新しさにチャレンジする人たちという感覚がある。ノットもそういう系譜に繋がる人だと思う。日本のメジャーオーケストラが初めて英国の、独墺仏から見ると周縁の地から来た音楽監督を迎えたというのが、今回の東響の挑戦であり、両者のある種の相性はその辺りから生まれてきている部分があるのではないかと思う。