奇妙な友情の記録

東京地検特捜部の西村検事と佐藤優の取り調べ模様は、佐藤優著『国家の罠』のストーリー上の長く続くクライマックスを形成しているが、それは僕が読書前に予想していたのとはまるで異なる内容であり、大いに面食らった。

扱われているトピックがトピックだけに、逮捕後の佐藤さんが東京地検特捜部と如何に戦うかが本書の読みどころになるだろうと誰もが思う。実際に読んでみると、その点は間違いないのだけれど、読者が目にするのは容疑者を一方的に絞り上げる鬼検事という図柄ではなく、インテリ検事とインテリ容疑者がぎりぎりの状況の中で互いの知力を総動員しながらも、静かに語り合い、意見を交換し合う不思議な姿だった。

佐藤さんを担当した西村検事は、初日こそ部屋を暗くして怒鳴りあげるという恫喝的な取り調べの姿勢を見せるが、佐藤優がそうした手法では決して落ちないと理解した(らしい)彼は、その後の取り調べにあたっては可能な限り自分の持っている情報とこの事件に対する客観的な認識を開陳し、佐藤にこれも可能な範囲で積極的な語りと意見の表出を導いていく。保身よりも自身の供述によって重要な外交上の機密情報が流れること、それによってインテリジェンスの世界で日本の姿勢が糾弾され、つまはじきされることを何よりも恐れる佐藤優は、逮捕につながったロシアとの外交の背景に遡って事情を説明し、西村検事は佐藤の示した参考文献をしっかりと勉強して質問を返してくる。結果的に我々読者が読むことになるのは、不思議な魅力に満ちた、本質的に敵同士であることを運命づけられている検事と容疑者の友情の記録だ。

冗長になるかもしれないが、二カ所ほど引用をしてみよう。

「西村さん、調書をそっちで勝手に作ってきたら。読まないで署名、指印するよ。担当検察官に点を取らせたいと思うようになった」
私は西村氏が侮辱されたと感じ、烈火の如く怒り出すと予想していた。しかし、西村氏の対応は冷静だった。
「申し出はありがたいけど断る」
「どうして。検察が思うとおりの話を作ることができるじゃないか」
「あなたに変な借りを作りたくない」
「別に貸しとは思わないよ。公判で任意性を争うこともしないよ」
「あなたみたいな人は任意性でがたがた文句をつける人じゃないと見ているよ」
(中略)
「じゃあどうして嫌なんだい」
「自分のモラルを落としたくない。あなたにはわかると思うけど、調室の中で僕たちは絶大な権力をもっている。この権力を使って何でもできると勘違いをする奴もでてくる。怒鳴りあげて調書を取れば、だいたいの場合はうまくいく。しかし、それは筋読みがしっかりしているときにだけ言える話だ。上からこの流れで調書を取れという話が来る。それを『ワン』と言ってとってくる奴ばかりが大切にされる。僕は『ワン』という形で仕事をできないんだ」
(文庫版p310〜311)

西村氏も私も基本的に黙っているのであるが、ときどきこんな話をした。
「佐藤は頑強に否認するのでこちらは机を叩いてガンガン取り調べている」
「そうそう。検察庁と基本的利害が対立しているので、非常に険悪な雰囲気だ」
「そうそう。いかなる利害の一致もない」
「しかし、西村検事に対してはほんのちょっとだけ信頼関係がある」
西村氏は右手の親指と人差し指の間に数ミリの隙間を作ってこう言う。
「そうそう。佐藤優との間にはほんの少しだけ信頼関係がある」
「しかし、それは僕にとって本質的な問題ではない。検察庁とは基本的利害が対立している」
「そうそう。だからガンガン机を叩いて取り調べている。しかし、もしかすると調室の中にいる僕たち二人がいちばん冷静なのかもしれないね」
「そうだね。どうしてなんだろうね」
「よくわからないね」
(文庫版p415〜p416)

本書によって一挙に世間に通用する用語になった「国策捜査」という用語も、西村検事が佐藤優に対して「これは国策捜査だから」と、その言葉と検察庁としての意味づけを教えることによって本書に収録され、いま我々の知識となっている。二人の立場を置き忘れたかのようなやりとりは、実際には長い取り調べの合間に短い時間あったのではないかと推測されるが、二人の人間的な距離が次第に短くなる様は本書を読む限り明らかである。二人とも互いが基本的に敵であることを明晰な頭脳で意識しながら、同時にぎりぎりの敵対的関係の中で友情が深まっていく。まるで小説か映画を見ているような錯覚に陥る。

佐藤優の公判を担当する西村検事は、裁判の途中で人事異動となる。東京地検から茨城の検察ナンバースリーへと明らかな左遷人事である。そのことを含めて怜悧に彼が見知った事柄を文字にしていく佐藤優という人について、あるいはその記述の対象となった西村という検事について、「この人と付き合うことを余儀なくされた西村さんはたいへんだったなあ」と思わざるを得ない。佐藤優は本書執筆の動機として、何があったのかを記録に残すことによって彼の後に続く後輩に同じ轍を踏ませないようにしたかったからと書いている。しかし、西村さんとのやりとりに関してさきほど引用したような部分に踏み込んで書くことによって、検察庁というお役所組織の一員である西村さんがどんな目に遭わされるおそれがあるのかついては、外務省というお役所組織で踏んだり蹴ったりの目に遭った佐藤さんには見えすぎるほどよく見えていたはずだ。友情の記録と見えて、実は検察に対する復讐だってちゃんと計算にあったのかななどとうがった見方さえしたくなるほどである。

しかし、その推測は正しくないだろう。佐藤さんは本書の中で、何度となく西村さんに対して節度を持ちながらも尊敬の念を表明しているし、救われるのは、佐藤さんが文庫本のあとがきで、西村さんに対する敬意と彼の立場への心配を表明している点だ。

国家の罠』が読書界に広く受け入れられることになって、西村氏が検察庁で不利な扱いを受けるのではないかということが気になったし、今も気になっている。<今年(2006年)、西村氏が水戸検察庁からエリートポストである最高検察庁の検事に異動したという話を聞いてほっとした。それと同時に上司の命令を「ワン!」といって聞くような者だけが出世する霞ヶ関(中央官庁)文化の中で、西村氏のような職人を評価する検察庁という組織は、外務省と異なり、まだまだ潜在能力があるので、侮ってはならないと気を引き締めた>(佐藤優『獄中記』岩波書店、2006年、458頁)と記したが、中央官庁の人事当局は狡猾なので、世間の注目を集めた「問題官僚」については、一旦、よいポストをあてがい、その後、左遷させるということはよくある。今後、西村氏が順調に幹部に出世していくかどうかは、検察組織の健全度を示すリトマス試験紙であると私は考えている。
(『国家の罠』文庫版あとがき P534)

単行本の「あとがき」で、佐藤さんは獄中、繰り返し読んだ本として『聖書』、『太平記』とともにヘーゲル精神現象学』を挙げている。西村さんとのやりとりとその記述には、そのヘーゲル現象学の影響が如実に表れていると見える。西村検事の側のコメントは、立場上世間には決して出てこないので、佐藤優の記述がどこまで西村検事の認識と一致するものかはよく分からない。少し格好よすぎる感がしなくもないが、佐藤さんが舐めた辛酸を思えば、これぐらいのセンチメンタリズムは許されなければならない範囲だろう。

■佐藤優著『国家の罠』を読む(2007年12月22日)