冷泉彰彦著『「関係の空気」「場の空気」』

発刊当時話題になっていた一冊であることは知っていたが、人に勧められて読みとても面白かった。
著者の冷泉さんはアメリカの大学で日本語を教える教育者で、村上龍主宰のメルマガ『JMM』の常連執筆者でもある。本書は日本語の専門家である冷泉さんが考える日本語論であり、日本語から見た日本論である。ぎくしゃくとする日本社会の現状をアメリカから、あるいは帰国中の日本で見聞する冷泉さんは、自身の専門に引き寄せてその原因は日本語にあるのではないか、社会のひずみは日本語のひずみに依って来たるところがあるのではないかという仮説を構築し、そうした仮説に基づいた論を自由闊達な精神で展開する。マルクス以降の我々一般人は、生産や経済が社会を形作る下部構造、文化の領域は言葉を含めてそれらの規定される上部構造だと考えるのが習い性となっている。そんな場所で冷泉さんは「言葉が社会を規定しているのではないか」と言ってみるということをしている。読んでみると、それはちと言い過ぎではないかと感じてしまうのだが、展開されている論理や事例が卓抜であることと同時に、何よりもこの着想の新鮮さが本書を「いい本だ」と思わせる大きな理由になっている。冷泉さんという著者の人間性がそこに最大限に表現されていると思える。

よく言われるとおり、日本語によるコミュニケーションは欧米の言語表現に比べると非常に大胆な省略表現に特徴がある。そのことが状況によって深い人間関係の構築と維持に貢献し、また状況が変われば関係をぎくしゃくとする契機としても作用する。それはなぜか。その際に持ち込まれる概念が書名にも採用されている「空気」。本書の中でも紹介されているとおり、山本七平の『空気の研究』を下敷きに、そこを冷泉流に一歩進めるかたちで空気の内実とその作用を分析していく。本書では、コミュニケーションを一人対一人の場合(「関係の空気」)とnの関係が生じる集団との場合(「場の空気」)に分けて考えるところに大きな工夫があり、人間関係の深さ、豊かさの表れである省略やタメ口、本書の中で「コードスイッチ話法」と呼ばれている「だ・である調」と「です・ます調」の混在といった語り口が、集団の中では権力関係に緊張を与えたり、自由の感覚を窒息させたりする要素として機能する余地が大きいことをきれいに分析している。

ある社会的機能が場の構造や関係、状況などによって異なる作用を及ぼす、その関係の相互性を喝破する著者のスタンスは、ドグマ的なメッセージを繰り出す輩とはまるで正反対の場所にあり信頼がおける。お手軽新書かと思ったら大間違い。いい読書になった。


「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)

「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)