アイヌの神様と私の神様

昨日の三上さんのエントリー「二風谷の記憶4:流れる水をよごさないように」を読んだとき、“ながら族”の私はモーツァルトの『魔笛』の第一楽章の最後の部分を聴いているところでした。それは高僧ザラストロの行いを称える人々の合唱になだれ込もうとする箇所で、その合唱ではこんな歌詞が歌われるのでした。

Wenn Tugend und Gerechtigkeit
Der grossen Pfad mit Ruhm bestreut,
Dann ist die Erd' ein Himmelreich,
Und Strebliche den Goettern gleich.



(ザラストロの)徳と正義が
大いなる道に栄光を降り注ぐとき、
大地は天国の豊かさで満たされ、
死を運命づけられた普通の人間ですら神々と同じになる
(中山訳)


フリーメーソンの一員だったモーツァルトが、その思想を賛美する意図をも込めて作曲したと言われる『魔笛』ですが、この一節では「素晴らしい指導者がいれば、あるいはそういう人に一生懸命に付いていけば、人だって神様と同じになれるんだよ」と説かれています。この合唱は、内容が有する主義主張はさておき、『魔笛』の数多くのナンバー同様、いつ聴いても格好いい。私大好きです。


これに対して、三上さんがめざとく見つけた、萱野茂さん(アイヌの文化的指導者で昨年亡くなった方です)の文章によれば、アイヌの神様と人間の関係は、我々が普通思いもよらないラディカルなものです(ぜひ、三上さんのエントリーで、萱野さんの文章に触れてみてください)。
「神様なんだから、偉そうな顔していないで人の役に立って当たり前なんだよ」っていうんですから、こりゃすごい。どんな神様も、人知を越えた畏怖の対象として表れるものだと私はぼんやりと信じていましたから、ちょっと驚きです。「神様、あんたもしっかりやってね。そうじゃないとそこにいる意味がないんだからね」と人間の側が主張をするこのふてぶてしさはいったいどこから来るのでしょうか。


私にはアイヌの人たちが信じる「サービスがよくて当たり前」な、まるで顧客満足度の高さで有名なリッツ・カールトンの従業員のような神様というのはほとんどびっくりマークの世界ですけれど、それなりに神様はよいことをしてくれるはずだという願いみたいなものは、実は心のどこかにいつもあるような気がします。その意味では私の神様は、『魔笛』のように、これこれの徳のある行いが地上に神の栄光を実現するという、主従の合理的な因果を前提としている存在というよりも、「神様はこんな私にもきっと慈悲を与えてくださるはずだ」という何だか判然としない安心感と一緒に、つまり、むしろアイヌのびっくり神様に近いものとして存在しているように思えます。


先週から私は「芥川龍之介週間」に突入中で、再読のものも、初めて読むものも含めて芥川作品の読書をとても楽しんでいるところなのですが、彼の『地獄変』の中にとても作り物っぽくありながら印象的なシーンがあります。

あるお殿様に仕えるこの物語の語り手が、彼がお屋敷の廊下を歩いていたところ、お殿様に覚えがめでたい可愛い子ちゃん(この小説のヒロインです)のペットである小猿が血相を変えて騒ぎたているのに出会う。この猿はお屋敷の中でいじめられていたのをヒロインに助けられたやつで、この話がまたなかなかよくできているのですが、ややこしくなるのでここではそれには触れません。で、語り手が猿に付いていくと、弾かれたように部屋から出てくるヒロイン。その目は血走ったようにらんらんとしている。走り去る誰かの気配。と、まぁ、こういうわけでヒロインは常日頃可愛がっているお猿さんに助けられたというわけです。
騒ぎが収まり、ヒロインを部屋へと帰して、心の中に大いなるわだかまりを携えながら元来た方へととって帰そうとする語り手。そこでです。

ところが十歩と歩かない中に、誰か又私の袴の裾を、後ろから恐る恐る、引き止めるではありませんか。私は驚いて、振り向きました。あなた方はそれが何だったと思召します?見るとそれは私の足もとにあの猿の良秀が、人間のように両手をついて、黄金色の鈴を鳴らしながら、何度となく丁寧に頭を下げているのでございました。
芥川龍之介地獄変』)


「そんなことあるわけねえだろが」と思ってしまうようなプロットですが、『地獄変』のなかで、この猿の所作はとても印象的で、その光景が見えるような気がするのも事実なのです。私の理性はこれはありえない話ですと伝えてくるのですが、「いや、もしかしたら」という気持ちがどこかに混入しているのでしょう。神様てぇやつは捨てたもんじゃなくて、ちゃんとどこかで俺らのことを見ていて、ときには猿に身をやつしても俺のことを助けてくれるかもしれない、と。それがどうやら普段そんなことを真面目に考えたこともない私の、神様というものに対する感じ方だと思った次第です。