不滅、あるいは聴き継がれるべき『魔笛』

フルトヴェングラーの『魔笛』を初めて聴いた。録音は1951年。ザルツブルク音楽祭におけるライヴ録音である。新しいアバドの録音を聴いてとてもいいと思ったが、するすると喉を通る清水のような演奏に「軽すぎる」と不満を漏らす向きがあるかも知れない。対極の演奏を挙げるとすれば、このフルトヴェングラー盤だろう。明るい日差しに溢れた波の上を帆に風を受けて軽やかにすすむようなアバドの演奏に対し、フルヴェンの録音は堅牢な建造物を建てるような、あるいは垂直の岸壁にロッククライミングを挑むような演奏と表現するべきか。いや、その比喩ではフルトヴェングラーのデモーニッシュな凄みを表現するのにはまだ不足がある。『魔笛』の物語に含まれる対決のモチーフ、試練を通り過ぎた後に得られる魂の浄化、それに漫画チックなこのジングシュピールのドタバタの側面のどれを取ってもフルトヴェングラーは大まじめに真正面から受けとめ、深くてロマンチックな大活劇を現出させる。


これを嫌う人は「肩に力が入りすぎる。大時代的にすぎる」と言うだろう。あるいは「モーツァルトベートーヴェンではない」と言うだろうか。しかし、フルヴェンの演奏を聴けば、あらためてモーツァルトロマン主義的な価値観を音楽の上で先取りしていた人であることがはっきりと理解できる。『フィデリオ』を聴いているかのような感慨を得るモーツァルト。心を音楽の中へと沈潜させ、同時に前へと駆り立てる『魔笛』。


半世紀以上前の演奏を聴いて、そこで歌われているパパゲーノもザラストロも、最新の録音で聴く歌い手達のスタイルとそれほど極端に違っていないことに気がついた。ここでスタイルというのは楽譜を見ていただけではまるで分からないことで、パパゲーノのパパゲーノらしさ、タミーノのタミーノらしさといった部分は、少なくともこの演奏が行われた昭和20年代の時分から今に至るまで嘘のようにしっかりと伝承されているという類のことだ。まるで同じだとは言わないが、世相の変化のすさまじさを考えると、あるいは演出上の多様性の噴出を考えると、舞台の上で伝承されるもの、とくに歌にまつわる普遍的なものの存在に考えるべき何かがあるような気になる。もう少しで何かの気づきにつながりそうな気がするが、今はまだここまで指摘しておくにとどめざるを得ない。


想像できるように音は必ずしもよくはないが、聴くのが辛いほどのことはない。現代の優秀録音に慣れている人は「こんなのが商品として流通するのか」とびっくりするかもしれないが、古い録音を聴き慣れた人、雑音の中にかつて鳴っていたであろう音を探るように聴くフルヴェン・ファンなら「とても音がいい」というレベルのもの。演奏がよければ、音響の悪さなど聴いているうちに気にもならなくなる。実際、聴き始めるとたちまち音楽に引き込まれてしまい、録音がどうだの、フルトヴェングラーや歌手がどうだのといった分析をしたがる自分がどこかへ飛んでしまう。フルトヴェングラーの魔法だと思った。