ざっくばらんな感想

三上さんの哲学者の嗅覚が、mmpoloさんと私がそれぞれ個別のトピックについて書いた文章を結びつけて新しい想起の機会をつくってくださった。大いに感謝しなければならない。


■肉体の衰弱について(『mmpoloの日記』2007年8月24日)
■衰弱と不滅:mmpolo vs. taknakayama(『三上のブログ』2007年8月24日)


若い頃の視線はこれから向かう先をひたすら向いていたのに、中年になると自分自身を振り返るようにして眺める自分を発見することになる。中年とは、つまりそうした視線を否応なく身につける期間でもあるわけだ。これは誰にとってもほとんど例外なくそうなのではないかと思う。まるで、死にかけた自分を部屋の高みから見下ろす臨死体験のような比喩だが、今を生きる自分をふわふわと浮かびながら清明のうちに凝視する目が、年々輪郭を増すような気がするのは、必ずしも気のせいではないだろう。私は見る側にいるのか、見られる側の私なのか。分裂しながら存在する私、その総体としての私は、ブログを書く私とブログの中に表現された私に置き換えてみることもできる。


自分をブログに向かわせる大きな動機は、一瞬でも私によって私自身を掴まえてみたいという欲望にあり、もう一つは他者の中に新しい自分を発見したいが故のコミュニケーションの欲望にある。私は、私に引き継がれた遺伝子を受け継いだ子どもたちに流れ出ていき、ブログで共感を分かち合う方々へと流れていく。あまりに楽観的でお手軽な解釈のような気が自分でもしないではないが、つまり可能性としてのブログがそのような前向きな自分と巡り合う装置であることについては疑いがなくなってきたというのが最近の感想だ。