ノット+東響の『コジ・ファン・トゥッテ』

オペラはほとんど観ない。『フィガロの結婚』も『ドン・ジョヴァンニ』もまだ生を観たことがない。『コジ・ファン・トゥッテ』を聴いたのは、これが生れてはじめて。とても、とても楽しかった!(2016年12月9日、ミューザ川崎

モーツァルトのオペラで観たことがあるのは『魔笛』を1980年にウィーン国立歌劇場で体験したのが最初で最後である。生れてはじめてヨーロッパに行ったときのことだ。それ以来のモーツァルトのオペラに接して、こんなに楽しいのなら、また聴いてもいいと思った。演奏が信頼のノット氏と東響なら。

オペラはほとんどまったく生で観たことがないが、録音となると話は違ってくる。『コジ・ファン・トゥッテ』だと、若い頃はベーム贔屓だったから、録音もベームウィーン・フィル、歌手はヤノヴィッツ、ファスベンダー、シュライヤー、プライが歌う盤がなんといってもお気に入りだった。『フィガロ』も、やはりベームの演奏でなじみ、若い時の一途さで、これらのオペラの演奏はベーム盤がすべて。その演奏があまりに耳についてしまい、他の演奏は受け付けられない、他の歌手の歌いまわしは正しくないように感じられる。こうなってしまうと、他の有名な演奏にもケチを付けたくなるだけだし、日本で下手な歌手の演奏を聴いても楽しくないだろうなどと、生意気な素人はおそろしくも正しい反応をしたりする。歌は生身の歌手の体が楽器で、人によって異なる表現の幅の広さは、器楽のそれをはるかに凌ぐ。この人の、この演奏がよい、などと言い始めたら、楽しみの幅はほとんどなくなってしまう。そういう時間が続いてきた。

それに。これは前にもブログに書いたことがあるが、オペラの演劇的要素は音楽を聴くのに邪魔になる部分がある。歌手にあれこれの演技をさせ、様々な書割をつくり、それはたしかにそういうものがあれば、その良し悪しをあれこれと言いたくなる。それは分かる。だが、それがゆっくりと音楽を聴く、音楽に没入する妨げにもなる。そこがオペラは面倒くさい。うっかりとはまってしまったら大変だという思いもどこかにある。

今回『コジ・ファン・トゥッテ』を聴いたのは、何よりもジョナサン・ノットと東京交響楽団が取り上げると知ったからだ。聴き始めて4年目。絶対に悪い演奏にはならない信頼がある。そして、演奏会形式で、下手な演出がない。さらに歌手には、大物のバリトン歌手、トーマス・アレンが加わってドン・アルフォンソの役をやる。これは質の高い演奏になると思ったし、それに昔のように「この演奏はこの演奏家」という偏狭な聴き方をしなくなってきたという自分自身の変化もある。次第に歳を取ってくると、どうでもよくなってくることが次第に増してくる。「ヘルマン・プライ最高!」という聴き方が偏狭すぎるということも、いつの間にか分かってしまっている。歳を取るのは決して悪いことではない。

この日会場で手渡されたパンフレットを読むと、どうやらノット氏は、モーツァルトとダ・ポンテのオペラ3作すべてを東響と一緒にやるつもりらしい。それは素晴らしいと思ってしまった。ついでに『後宮からの逃走』や『魔笛』もやってくれないか。全部聴きに行くから。