ノットと東京交響楽団のシューマン交響曲第2番

「トリが地味な曲だから、このコンサートはやめとこ」と思っていた東響の定期(トリスタンの第一幕への前奏とデュティーユのチェロ協奏曲、シューマン交響曲第2番の3曲)に行ってきた。一週間前にもらった東響からの営業メールを読んだら、なんだか急にトリスタン和音が聴きたいような気分になり、結局、ミューザ川崎に足を運んでしまったのだ。しかし、本当よかったのは当初は地味だからと遠慮していたシューマン交響曲第2番で、これはノットと東京交響楽団の素晴らしさが十二分に発揮された演奏だった(2016年12月4日)。

70年代、80年代ぐらいまではオーケストレーションが下手な作曲家の代名詞みたいに言われていたシューマンだが、実際のところ、2番はオーケストレーションのどんくささが際立つようなくすんだ音色と、音楽の全体の構造観が見えにくい「出来損ない古典派」的な演奏が、まあ通り相場といってもいいほどだったように思う。

しかし、この日の東響のような演奏を聴くと、まさにそのオーケストレーションにこそ、シューマンの声楽曲やピアノ曲の繊細さが聴こえてくるからノットは大した指揮者だとあらためて感服した。弦楽器のメロディの微妙な受け渡しとブレンド感にとくにそれを強く感じた。ニュアンスの細かい変転を孕みつつ、ハイテンションで疾走する演奏は、以前このコンビで聴いた『運命』を思い出させる。その時も、まあこの聴きなれた曲が新しく聴こえることよと感嘆の声を上げたくなったものだが、この日もまさにその再現といった展開で、しかも東京交響楽団の演奏はさらにこなれて、ノット・クレッシェンドとでもいうべきクライマックスの築きは、より自然で堂に入ってきた。ブラボーである。

今年聴いたこのコンビではリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」、ブルックナー交響曲第8番、ショスタコーヴィッチの交響曲第10番と楽しんできたが、このシューマンはそれらと同等、あるいはそれ以上の達成だったのではないかと思った。

そこで考えたのは、この演奏を10月の東響欧州ツアーで酷評をしたドルトムントの新聞の批評子が聴いたら、さて、何と言うかということである。おそらく「機械的」という反応が再び聞かれるだろうというのが私の感想だ。そう言わせるものが東響の響きにはあって、これは今すぐにどうなるものでもないし、どうしようもない。さらに、ノットの棒の下で「コン・ブリオ」にたたみかける一体感の強い演奏になると、この「機械的」感はむしろ強調される面もある。まだ、そこを突き抜けるまでの余裕はこのコンビにはないとしても、さらに時間を経れば、東響はますます面白くなる気がしてきた。