フレーミングの楽しみ

スタジオで写真を撮る人にとっては光源をどうするか、どんなライトをどのように配置するかが写真の醍醐味であり、技術が宿るもっとも大きな部分だと思うのですが、私のような素人カメラマンがお散歩写真を撮る際に出来ることの最たるものは構図を決めるという行為です。些細なことには違いありませんが、その瞬間には小さな全能感とある種の責任感が自分自身に宿るような気分になります。大げさに言えば。


さらに思うのは、芸術は自然を模倣もすれば、その過程は人生をも模倣するなということです。何の話かと言えば、私の場合、優柔不断さが写真を作る作業のなかでしばしば顔を出すと感じる事実を指しています。もっともそれを感じるのは撮った写真を選び取る作業の際でしょうか。「この写真はこのフレームだ!」と一発で決まったものは別として、何枚かは似たようなカットのオンパレードという状況になります。そのときになかなか「よし、これだっ!」と決めきれない場合がある。


『写真帳』に掲載した写真を使って説明しましょうか。こういうのも何でもありのブログの素材としては面白いかもしれません。
昨日アップした横浜開港広場の隅にある人口池の写真ですが、最初に撮ったのは鳩が池の縁で水遊び(足湯というべきでしょうか)をしている場面でした。鳩に惹かれた一枚です。



その直後に画面には映っていない左側から霧状の噴水が流れ落ちてきて水面にさざ波が立ちました。その瞬間をまた一枚。このときには池の水面の広がりを表現することに意識がいっていました。



この後に撮った一枚では池に姿を映す街灯の、垂直方向の方向感を強調するのが運動感が表現できて面白いのではないかと考えました。横に長い池を縦に切り取ること自体、小さな冒険だという気持ちも混じっていました。



撮るときにはいいのですが、撮った後に「どれを見てもらおう」と考えると迷います。「どれもありだったら、全部掲載すればいいじゃない」とおっしゃる方がいるかもしれません。でも、同じような作品が複数枚あれば結果的に見る際の感興は確実に減ってしまいます。だから、ここは似たような図柄から一つを選ぶことがとても重要です。それだけにさらに迷う。


この写真については、池自体の広がりを最優先することを判断ポイントに2番目のショットを写真帳に掲載しました。一番単純で、つまらないと思われるならこれではないかとも考えましたが、水面のさざ波が悪くない。単純さを押しだそうと考えました。

■広場の水(『横浜逍遙亭・写真帳』)


二つめの例は、今朝エントリーした一枚に関して。横浜港の水際に座っていた白黒猫を狙ったものです。
最初に撮ったのは、猫を左上に配置した一枚。私の場合、考えないとこういう構図をとっさに選びます。猫が次の瞬間に歩き始めていたら、これが完成品だったと思います。



ところがこの猫、置物のようになってじっと考え事をしている。そこで私も考え始めます。せっかく船があるんだから、それを入れてみた方が面白いんじゃないの、と。それで撮ったのが次のショットです。



まだ猫さんは動きません。そこで今度は標準ズームを大きく引いて、世界をまるごと入れてみようかと思いました。



どれがいいだろう? 自らの感性にもっとも正直なのは最初のショットで、コンクリートの空間の、日常のものにあらざる感覚と猫の対比で決まりだと思ったのですが、二番目の欲張りショットもそれなりに悪くはない。ちょっと悩みました。隣の建物の時計を入れたやつは、これらと肌合いが違う画になっています。ある意味で、もっとも説明的でわざとらしい画ですが、時計と猫という二つの事物が視線を吸引する力は弱くない。私が撮れればいいなと思っている「“現実にどこかにあった風景”ではなく、“今ここにしかない現実とは切り離された風景”」のクライテリアにしっかりと入っています。広角を使う画はそのデフォルメの効果が強すぎてそこの意識がいってしまう傾向がなきにしもあらずなので、あまり頻繁には撮らないようにしているのですが、いつもと違うテイストを挟み込むのは悪くないので、今日はこれにしようと決定。

■10時2分(『横浜逍遙亭・写真帳』)


こうして書いてみると、どの写真も捨てきれない我が心の弱さに決別して、様々な可能性の中から一つを選ぶ決断の修練をしているとも言えるわけで、よく考えてみるとそんな効果もあり得ないことではないなと思えてきました。ありえないどころか、実際にそうなのだと納得できる気がしてきました。してみると、カメラを扱いながら、同時に私は思想や哲学の領域にちょっとだけ、知らず知らずのうちに関わっていたことになるのかもしれません。写真の楽しさは、こんな風にして自分を鍛える運動であるからなのかもしれません。確信というのは、どこから降りてくるか分からないものですね。