中沢新一著『熊から王へ』を読む

図書館をぶらぶらしたら、mmpoloさんにお勧めいただいた一連の中沢新一本の中から『熊から王へ』があったので、手に取ってみた。

アイヌを南限とし、アリューシャン列島から北アメリカに点在する北方狩猟民の神話的世界と世界観、社会規範を紹介することを通じて、私たちの文明のあり方に電気ショックを与えるといったタイプの書物である。大学の講義を下敷きにしてあるそうで、「ですます調」の話し言葉で書かれたいそう読みやすい体裁に仕上った本だ。


この本の中でキーワードとして繰り返し用いられているのが「対称性」、それに対応する「非対称性」という概念。中沢は北方狩猟民族の神話を支配する“対称的”世界観を、私たち現代人の“非対称的”世界観に対置し、エコロジーを踏まえた対称性の世界の豊かさを読者に知らしめる。私たちの非対称的な世界観の中では人間と自然とは対立し、人間は自然を支配する位置にいる。これに対して北方狩猟民の対称性の世界では、人間と自然とは同等の場所に位置し、両者は相互に交流をしながら互いを尊敬し合いつつ共生する。


このことを読者に納得させるために取り上げられているいくつかの神話がとても美しく印象的だ。山羊を狩りに行って道に迷い、それと知らずに人の姿をした山羊の世界に迷い込んで山羊の女たちと乱交的に交わり、「雌山羊はみなあなたの妻であり、その子どもはあなたの子どもなのだから、決して殺してはならない」と諭される男の話、熊に嫁つぎ、自分の親兄弟を殺す羽目に陥った少女の話、さらには宮沢賢治の短編を含め、どれも思わず短い話の登場人物に感情移入をさせられてしまうような独特の力を放つ物語がちりばめられて本書のトーンを形作っている。


中沢はこれらの素材を使って、彼が対称性社会と呼ぶエコロジカルで洗練された狩猟民の文化が内包する普遍的な価値を訴え、さらに自然と調和したそれらの文明がどのような契機を伴って野蛮なクニを発生させることになるのかを分析する。その先に対称性の社会の論理と共鳴する仏教の本質と今日的な意味に言及して中沢はこの本=講義を締めくくる。


博学と想像力、論理的構成力が手を携えてメッセージを訴える中沢の講義は、とても面白い。その思想に共鳴したい人にとっても、知的な冒険の仕方を勉強したい人にとっても意味のある読書の時間が待っている本だと思う。読んで損はしなかったというのが偽らざる感想である。


ただ、うまい具合に言いくるめられちゃったなあという中沢の本を読んだ際に出てくる感想が、個人的には今回もつきまとった。その「いいくるめられちゃった」感は、ちょっと言い過ぎかも知れないけれど、よくできた、だけれどもちょっと眉唾な週刊誌の記事に「へぇー」と驚くときの感興と似たところがあるというのが僕の感じ方だ。この人の知力があれば、あらゆる素材を吟味して壮大な物語を語りうるだろうし、あるいは限られた、なけなしの素材を使っても自らの訴えるところを読者に信じさせることに成功するだろう。本書の中には折口信夫の古代研究に言及し、次のように語っている部分がある。

いまの学者たちには、とてもこんな大胆な考えはできません。そんなこと、いくら古典をしらみつぶしに調べても、どこにも書いてありません。
(中略)
かつてあったものを、そのものとしていくら研究したところで「ポエジー」としての文化の本質にはたどりつくことができないでしょう。それよりも、現実の中にとりあえず実現されてあるものをよく見て、そこからそれが「あるべきであったもの」を取り出すことの方がずっと意味があるのではないでしょうか。こういう「ポエジー」の精神に満ちた学問を、もういちどよみがえらせてみようではありませんか。荒唐無稽がいつか真実に変わるような学問。人間を本当の意味で豊かにする知性とは、そういうものでなければならないと、私は信じます。


折口について言及したこの文章が中沢自らの所信表明であることは言うまでもない。別に皮肉でもなんでもなく、我々が忘れている何か、無視している何かを前面にたてて戦おうとする中沢の態度には見習うべきものがあると、この本を読んであらためて思った。中沢のうさんくささと面白さは自身が選び取った主義であるのだから、少なくとも彼の著書を手にしたときには、それを面白がる心の準備が必要だ。