写真を撮っていて思うこと

アメリカで4年余の間、ほぼ毎日テレビを見ていた僕が、ある日、日本に帰ってきて当たり前のように気がついたのが彼我の間のコマーシャル映像の違いに関してだった。何かというとニューヨークで見るコマーシャルには街がよく映る。大都会の風景だったり、郊外のどこかだったり。最近、少し違ってきたようにも感じるのだが、日本のコマーシャルは都会でのロケを活用するものがあちらにものすごく比べて少ない。代わりにスタジオでの画づくりやアニメーションの利用が目立つ。端的に言って、日本の街は画にならないということだ。商業的な効果を競うコマーシャルフィルムでは、様々な制約とともに、制作者のそうした暗黙の評価が街の風景を広告から遠ざけているのだろうと勝手に想像している。


自分のことに引き寄せてみても、趣味の写真撮りのときにそれと同じ意識が当たり前のように働いている。電線と無分別な住宅の連なりは意識的に素材から遠ざかってしまう。そういうもののない世界を、しばしの間嘘でもよいから夢見ていたい。自分にとっては写真を撮る動機はそんなところにもある。そうすると結果的に広角域よりも望遠域の画づくりが多くなる。一部のプロの写真家の作品などを見ていると、僕のような意図とはまったく正反対に、目に見える現実そのものを、その奥に潜んでいるものを暴き出すような画を求めている人もいる。そんな作品を目にするたびにたじたじとなり、凄いなあとは思いこそすれ、ちょっと辛いなあ、嫌だなあと尻込みする気分になるのが正直なところでもあるのだが。


カメラがよくなり、僕のような素人にもある程度の画像が手に入るようになった時代だからこそ気がついたことだが、撮る者のスタンス、大袈裟に思想と言い換えてもいいが、それこそが写真の出来具合を決定的に左右しているということを痛感させられるこのごろだ。アートのプロははるか昔から知っていた原則かもしれない。しかし以前ならばプロでなければ思い至らなかった真実に我々素人が無防備に近づけるような時代になっているということ自体が普通のことではないじゃないか。アマチュアが楽しみで撮っている間はいいが、自分がプロだったらと想像すると恐ろしい時代だとつくづく思う。もっとも我々一般人の職業生活でも似たようなことは起こっていて、そのきつさ加減は五十歩百歩かもしれない。何れも急速な技術の進展が背後にあることは言うまでもない。