オールド・スポート

村上春樹が『グレート・ギャツビー』の後書きの中で「old sport」に対するこだわりを紹介している。この「old sport」というのは、物語の中で主人公のギャツビーが使う口癖で、話し相手に対して親愛の情を表現する決まり文句で、「わたしにとって大事なあなた」みたいなニュアンスなのだろうか。何かひとこと言うたびに、言葉の最後に「old sport」と言わないとギャツビーは気が済まない。しかし、この言葉はこのお話が書かれた当時のアメリカでも普通に使われていた言葉ではなく、敵役はギャツビーがこの言い回しを使うことに端的ないらだちを表現する。ギャツビーは以前滞在した英国でこの表現を身につけたらしいということになっている。

20年来『ギャツビー』の翻訳を遠い目標として狙っていた村上さんは、ずっとこの一語をどう訳すかに頭を悩ませてきた。その結果、『グレート・ギャツビー』では最終的に「オールド・スポート」という日本語になった。英語国民の知り合いからももっとこなれた適切な日本語を用いるべきではないかと意見されたことを紹介しつつ、しかし、これはそれ以外ありえないと村上さんは結論づけている。

「old sport」は20世紀初頭の登場人物たちにとっても聞いたことがない、急ブレーキを踏まれるような言い回しに聞こえたわけだから、現代日本の読者にとってもおっと立ち止まるような違和感があり、さらに上流の人、外国を知っている人を暗示する単語を見つけてくるのは容易なことではない。その結果、村上さんは「オールド・スポート」を選んだ。昨日紹介したとおり、彼は『ギャツビー』の素晴らしさはその英語自身の素晴らしさにあり、そのために翻訳でそのよさを感じてもらうのは不可能に近いという趣旨のことを書いている。「old sport」は翻訳の、二カ国語の境界線にあって、ついには「オールド・スポート」というカタカナ言葉を与えられた。

何を書いているのかというと、こうした自らのこだわりに対する真正面からの格闘って素敵だなという、ただそれだけのことだ。一歩踏み外すとというべきか、もう一つの彼の本心はというべきか、『ギャツビー』は英語で読むしかないということが語られているに等しい。その高い壁を自らのうちにしっかりと認識している人にあって、初めて翻訳という行為に創造性、芸術性が付与される。当たり前の話だと思う人は相当翻訳に長けている人だと思う。ただ繰り返しになるが、僕がここで取り上げた理由は、翻訳の技の話をしたかったからではなく、あくまで自分に対するこだわりをどこまで保持できるかがものすごく大事なことだと、これは自分自身に対する戒めのつもりで書き付けておきたかったから。

ちなみに「old sport」同様、本書でもう一つ村上さんがこなれた日本語を探してくるのを諦めている表現に気がついた。題名の『グレート・ギャツビー』だ。ほとんどの人はロバート・レッドフォードの主演で映画にもなった『華麗なるギャツビー』で本書を記憶しているはず。原題は『The Great Gatsby』だ。