免許証

口座を開いたままに放ってあるアメリカの銀行からある種の手続きを要求する手紙が来た。面倒なことに公証役場まで行って、1万円以上の手数料を払ってハンコを押してもらわなければならなかった。昼休みに勤め先からさほど離れていない雑居ビルの7階にある役場を訪れた。

窓口で身分証を見せて欲しいと言われ、「これしかないけどいいですか」と健康保険証を出したら、案の定顔写真付きのものがいるので運転免許証を見せて欲しいときた。あれば最初から出している。パスポートは切れてしまい、顔写真付きの公的証明書が一つもないのがいまの僕である。このときの窓口の女性は気の利く人で、結局保険証で済ませてくれた。今回は比較的スムーズに事が運んだが、融通が利かない役所だと戸籍謄本を持ってこいという話になり、福岡に本籍を置いている僕の場合、これがまた面倒で時間がかかる。本人性の確認が必要な状況に置かれて毎度のように「免許証」と言われ、免許証を持っていない僕は毎度「免許持ってないんです」と答えるという判で押したような、いつも見ているビデオの再生のような場面を繰り返し体験することと相成るのである。

それほどまでに自動車免許を持っていることが当たり前の世の中で、免許を取らずにやってきた。おそらく将来にわたって都会暮らしを続けるだろうし、排気ガスを撒き散らす人間が一人減るのは環境には悪いことではないし、第一、自分自身が人殺しとして指弾される悪夢から遠ざかることになる。かように二十歳の頃の僕は考え、免許は取らないことにした。

不便と言えば不便だが、自分が欲しいと恋い焦がれないもの、なくていいやと納得しているものについて人間の欲望は寛容である。おそらく自動車を持っていれば、都会を抜け出して日常の喧噪から途中下車するドライブや、自動車ありきの登山計画や、幼児だった子供が高熱で発作を起こしたときの対処やと、我が身にとって便利なことはたくさんあっただろうとは思う。そういうものを知らずに来て、損をしたという気分がないのは自分にとって幸いだ。オーディオ装置や、カメラやらには端的に物欲を覚えるのに自動車に対しては、それがこれっぽっちもない。

ところが、アメリカにいる間、4年の間、そんな人間が自動車免許を持つ身となった。なんと便利なものだろうと驚いた。僕が知っているアメリカはニューヨークとその郊外で、かの国ではもっとも人口密度が高い場所の一つだが、そんな土地でさえ車はまさに下駄代わりで、なければ何もできないに等しい。家族をアメリカに招き寄せて間もない頃、子供を学校に入れるために医者の健康診断が義務づけられているために近くの小児科医のところへ連れて行ったのだが、家族5人で誰も歩いていない道をとぼとぼと歩いてやっと到着し、診察を終えて、またとぼとぼと歩いて帰っていたら、通り過ぎた車からやはり同じ学区で子供を学校に通わせていた日本人の奥さんが降りて来て、気の毒がって乗せてくれたのだった。

自動車を購入した直後、隣に住んでいた若いアメリカ人夫婦に先導役になってもらい、はじめて土地で有名な巨大ショッピングセンターに連れて行ってもらったとき、「20分少々ですごく近い」と言われた。そのあげくに連れて行かれた施設は高速道路を使っての「20分少々」、距離にして30キロ以上、つまり東京と横浜よりも遠い場所にあった。そのショッピングセンターを「近い」と宣う自動車族の距離感覚には驚いたものだが、そんな驚きは自分たちが車を運転し始めると、たちどころに消えてしまった。女房が毎日子供を送り迎えする幼稚園ですら10キロ離れているのである。

免許をとってから2ヶ月の間、楽しくて週末にはあちこちを乗り回した。ところが、ハッピーな日は長続きしなかった。自宅近くの交差点で派手な追突事故を起こし、車は右前面を大破。相手の車の運転手に大きなけがをさせなかったのがせめてもの救いだが、これ以降、僕が女房から運転をさせてもらえる機会はごくごく限られたものになってしまった。歩いていてるときも、ぼんやりと物思いにとらわれて人にぶつかったり、信号無視をしたりするような性格の人間は、やはり自動車を運転してはいけないのである。

というわけで、僕はアメリカであこがれのペーパードライバーの地位を獲得することになった。免許証は便利だ。出張に行くとき、どこでもその1枚で身分確認が済んだ。帰国後、できれば免許はそのまま日本のそれに書き換えたいと考えたが、調べてみると僕にはとても無理であることが分かった。昔はすぐに書き換えてくれたようだが、今は帰国後3ヶ月だったか、半年だったか、限られた期間に実技試験を受けてそれにパスしなければならないのだというではないか。縦列駐車すらやったことがない僕に日本の自動車免許がとれるわけがなかった。