世界で戦うのは楽じゃない

小澤征爾さんは毀誉褒貶が相半ばする音楽家だ。日本では、その人柄に惹かれる大勢のファンに囲まれ、マスコミからは“世界のオザワ”と褒めそやされているが、2002年までほぼ30年にわたってボストン交響楽団音楽監督を務めたアメリカ、とくに地元ボストンやニューヨークでは「否」に囲まれる方が多かった。現在音楽監督に就いているウィーン国立歌劇場でも厳しい評価がけっこうあると漏れ聞く。フランスもの、合唱の入った大規模な管弦楽、現代作品などの評価は若い頃から世界中で高いが、モーツァルト、ベートーベン、ワーグナーなどドイツものでは叩かれることの方が多い(ちなみに僕も、小澤さんでこれらの作曲家の曲を聴きたいとは思わない非小澤一派だ)。

その小澤さんのボストン交響楽団での音楽作りを追ったカール・A・ヴィーゲランド著『コンサートは始まる』(木村博江訳 音楽之友社)は、クラシック音楽系のノンフクションとして読み応えのある逸品である。すでに絶版でありアマゾンなどで中古が出回っている状況なので、簡単に手に入るかどうか分からないが、クラシック音楽に興味がある方であれば、無理をしても入手することをお勧めしたいし、著者はそれとは意図していないにもかかわらず(というよりも意図していないからこそなおさら)外国で奮闘する日本人の記録としてクラシックに興味があるなしにかかわらず面白く読める一冊だと思う。

本書は、ボストン交響楽団の主席トランペット奏者・チャーリー・シュレーターと音楽監督小澤征爾の音楽上の確執を中心に展開する。異なる音楽観を持つ二人がぶつかり合いながら、マーラー交響曲第二番のコンサートと録音を成功させる物語は、全編特異な緊張感を孕んでおり、ふだん窺い知ることがない一流どうしの真剣勝負が如何なるものかを我々に伝えてくれる。シュレーターの前に立ちはだかる音楽監督・小澤という図式を著者は採用しているが、とはいえいたずらにシュレーターに寄り添うようなスタンスはとらず、二人の関係を一歩引いたところから見事に活写している。

この話はコミュニケーション不全の物語であり、それこそが本書の読みどころである。ボストン交響楽団という五大メジャーオーケストラのシェフとして、超絶的な音楽能力を身につけ恐れられているが、同時にとってもフツーの日本人でもある小澤さんがどんなに苦労をしてその地位を保持してきたのか、読者は驚きとともに知ることになる。そして彼が一般大衆の大いなる賞賛を受ける一方で、日本で信じられているようにすんなりと彼のオーケストラに受け入れられているわけではなく、それどころか周囲の米国人に大いに困惑を生んでいる実態をもまた。

こうしたサービスと服従に慣れっこになっている征爾は、それによって彼個人が失うものに気づかず、ホール(註:ボストン・シンフォニーホール)の中での自発的な人間関係から遠ざかっていることも意識していないようだ。もちろん彼は仕事以外にほとんど関心を払う余裕はない。しかし他の人々、とくに自分の人生に豊かさを加えるオーケストラのメンバーたちとの互いの交流を失っている。そして事務所の中にすら、彼をよそ者のようだと感じる職員もいる。彼の思いがけない心づかいに驚かされたというエピソードをすぐに思い出せる者もほとんどいない。彼もホールの音楽家以外のスタッフの名前を六人以上知っているとは、ほとんど誰も信じていない。(同書p191)


練習の際に必要以上に言葉で説明することに重きを置かないために、一部の楽員に意図していることが通じていない小澤。「彼なら電話帳一冊だって覚えられる」とその能力を評価されつつ、「音を出さないんだから、彼は音楽家ではない」と楽員から陰口をたたかれる小澤。練習一筋のために地元のメディアと接触をほとんどしない小澤。さまざまなエピソードの中に挟まるそうした記述に日本人の読者はどきりとする。

普遍的に日本人が欧米で直面する文化の壁が、日本という枠を越えて成功を遂げた日本人のパイオニアである小澤さんを苦しめてきたのだろうと思う。僕自身がカーネギーホールで聴いたあるコンサートでも、ニューヨークタイムズが「未だに英語もうまく話せない」といった、音楽以外の部分をあげつらって揶揄していたのを思い出す。おそらく、松井もイチローも同じような困難に出会いながら日々を過ごしているはずだ。アメリカ人である著者が決して意図していなかった"アメリカのエスタブリッシュされた社会の中の日本人"というテーマが、音楽ドキュメントとしても良くできた本書に複雑な色合いを加えている。

こういう格好の悪い小澤さんが書かれている本はあまりない。絶版になったのは、たぶんそのことと関係があるはずだと僕はちょっと穿った見方をしているのだが、考えすぎだろうか。日本人のおべんちゃらから無縁の、小澤征爾が真に苦闘する姿が描かれた本書が無視されているのはもったいない。どこかの出版社が文庫化しないか。

コンサートは始まる―小澤征爾とボストン交響楽団

コンサートは始まる―小澤征爾とボストン交響楽団