セイジ

先週末の日曜日、新宿の中古CD屋に入ったら、モーツァルト交響曲第40番の終楽章が鳴っていた。とてもいい。均整がとれていて、ケアが行き届いた筋肉がきびきびと動くのを見るような演奏。録音がいいから最近の演奏に違いない。誰の演奏だろうとカウンター横に置いてあった演奏中CDのジャケットを確かめると、小澤征爾指揮の水戸室内管弦楽団のそれ。ふーん、と思う。小澤征爾モーツァルトはつまんないと、日頃はうそぶいていたのである。理由がない感想ではない。10年少々前、ボストン交響楽団のニューヨーク公演で聴いたモーツァルトは、まるで響くものがなかった。FMで聴いたあれも、CDで聴いたあれも、といま聴いた演奏に惹かれた自分を否定しようとするかのように昔のことを思い起こそうとする。しかし、ある日、ある演奏にがっかりした自分という映像は思い浮かぶのに、演奏それ自体が本当にどうだったのかは曖昧模糊として記憶の向こうにかすんでいる。こんな風にすべて忘れてしまえれば、それはそれで幸せなのではないか。それこそは幸せなのではないかと最近よく考えるトピックに心はとぶ。


モーツァルト:交響曲第40番

モーツァルト:交響曲第40番


その二日後にあたる昨日、勤め先で出したばかりのノンフィクションの翻訳書を読みながら帰宅する。『動物病院24時』という、アメリカはボストンにある全米最大級、ということはおそらく世界で一番大きい規模の、動物病院に勤める獣医さんが書いた軽妙洒脱な動物診療記。その最初のページに、著者が真夜中の急診に立ち会うジャーマンシェパードの話が紹介されていた。飼い主の老人が、そのシェパードの緊急事態に直面してうなだれるシーンに心がしんとなる。訳文は軽妙洒脱なトーンだが、こういうシーンの重さは文体の軽さがそれを際だたせるのか、それとも文体の軽さを登場人物の気持ちが覆ってしまうのか、どちらが正しいか分からないが、いずれにせよ感じるものを確実に残す。たかがペットの話だと思うのだが、ブログをうろうろしてあちこちで犬猫の話題に接しているからか、それなりに歳をとってきて人の心の繊細さが少し分かってきたからなのか、平静ではいられない気分が通勤電車に揺られる自分のなかをよぎって通り過ぎる。

この、重体の床にありながら、獣医に向けて尻尾を振ってみせる心優しきシェパードの名前が「セイジ」だと書いてある。「セイジ?」と僕ははっとする。本の舞台はボストン。小澤征爾が30年近い長い期間、その音楽監督を務めたボストン交響楽団フランチャイズとする街だ。

もしかしたら間違えているかもしれないが、と僕は思う。「セイジ」は、原著では「Seiji」なのではないか。つまりそれは「征爾」ではないのか。動物病院の、真夜中の待合室でうなだれる老人、自分にはセイジしかいないとつぶやく老人は、クラシック音楽と忠実なペットだけが心のよりどころとして人生を過ごしているのではなかったのか。セイジ。


動物病院24時―獣医師ニックの長い長い一日

動物病院24時―獣医師ニックの長い長い一日


帰宅し、居間に足を踏み入れると、つけっぱなしになっている民放テレビには、女優の木村佳乃をレポーターにたててウィーンの街を紹介する番組が映っていた。僕が見始めたのは木村がウィーン歌劇場の楽屋裏を見て回るシーン。その夜、正装した彼女は当日のオペラ本番を聴きに行く。と、そこに登場するのは現在の音楽監督である小澤征爾。彼が指揮する「エフゲニ・オネーギン」がその日の演目なのだ。セイジ。小澤征爾は、終演後の万雷の拍手に、例の人なつこい笑顔で応えていた。セイジ。


http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/20091106et0c.htm


番組を見た後、Gmailをチェックしたら、今年の夏、松本で毎年定期的に開催されているサトウ・キネン・フェスティバルに初めてご夫婦でいらした前の勤め先の先輩Yさんから、よければ来年は一緒に行かないかとお誘い頂くメールが入っていた。小澤征爾が、桐朋のOBを中心としたプレイヤーとコンサートやオペラを演奏する人気の音楽祭だ。

その小澤征爾の演奏会を来月冒頭に聴きに行く予定だ。数ヶ月前に友人にとってもらった新日フィルでのブルックナー交響曲第3番。去年の1番に続いて1年ぶりの小澤さんの演奏会である。そこで僕が出会うのは、どのようなセイジなのだろう。


http://www.njp.or.jp/njp/programinfo/2009-10/2009_1206sp.html