新日フィルと小澤征爾でブルックナー交響曲第1番を聴く

ちょうど1年前にブルックナー交響曲第8番を聴いて以来のオーケストラコンサートは、小澤征爾指揮新日フィルでブルックナー交響曲第1番。17日(土)のサントリーホールである。

オーケストラは一年ぶりだが、小澤さんを聴くのは10年ぶり。ボストンが毎年やっていたニューヨーク・カーネギーホールでの定期で「くるみ割り人形」の組曲を聴いて以来である。小澤さんは賛否両論、好き嫌いの分かれる指揮者だが、僕は自分が好んで聴く曲と小澤さんが得意にしている曲とが合致しないために、いつも辛口に言いたい放題なお気楽リスナーである。しかし、一昨日の演奏会では、久々にこの日本でもっとも成功した指揮者を聴いて、その凄みに圧倒されるようだった。

ブルックナーの1番は、40代に交響曲を書き始めた人の作品だけに、1番とはいえ、さすがに青年の作品とは異なる。初期の作品にしてすでにオーケストレーションという意味では出来上がった部分が目につく曲だ。しかし、後期のブルックナー作品に比べれば、曲想がごちゃごちゃしていて曲全体の見通しがよろしくない。そこをどう整理して聴かせてくれるのかが演奏家の腕の見せ所なのではないかと思うが、まさにこの点において小澤征爾の力量が並大抵ではないことを示した演奏だった。

一緒に聴いたYさんは、バルトークの「オーケストラのためのコンチェルト」など、小澤の演目として評価が高い曲と、この作品の“とっちらかった感じ”がする部分での共通性を指摘しつつ、「この曲は小澤向きじゃないか」と指摘していたが、たぶんそのとおりなのだろうと思う。メリハリのついた、糊の効いたワイシャツのような仕上がりが気持ちよく、下手をするとなんだかよく分からなってしまうこの曲が、すっきりと芯を得て、熱くゴージャスに仕上がっていた。

後付けで彼の音楽的業績を見渡せば、ブルックナーが本当にブルックナーらしくなるのは5番以降だと思うが、息の長い旋律線を伴う、複雑な単純さを体現したブルックナーよりも、3番以前の元気のよいブルックナーは小澤さんの感性にはぴったりだと感じられる。3番あたり、聴いてみたい。関係者を身内に持つ友人がいるためにときどき聴く新日フィルだが、バランスのよい透明感のある響きといい、確かな構成観といい、何よりも楽員ののめり込みようといい、これだけの演奏をこの楽団から引っ張り出す指揮者は小澤さんをおいて他にはいないのではないか。

いつものとおり、この新日フィルとの演奏の後、小澤さんはこの曲をあちらの一流楽団と演奏する。今回のお相手はベルリン・フィルである。新日フィルでは出ない重たい響きを得て名演となるかどうか。