ブログは日本語を滅ぼす

水村美苗著『日本語が亡びるとき』を読んで、真っ先に意識が向かったのは表題のことだ。インターネットの時代となり、英語が普遍語としての影響力をますます増しているのは、同書で水村さんが指摘するとおりだと思う。しかし、インターネット時代における審美的な側面での日本語の滅びを問題とするならば、英語に対する国語としての日本語の相対的な地位の低下と同時に、乱れた日本語がこれでもかと飛び交うインターネット空間、とりわけブログのことをどうしても問題にしなければならない。

以前、僕は「ブログを書くと日本語が下手になる」というエントリーを、自身の率直な感想を基に書いた。そのときに書いたことを繰り返すと、僕のようにパソコンに向かい合った瞬間の日々の感想を、ほとんど推敲もせずに言葉にする類のブログは、誤字脱字という低級な次元を含めてひどい日本語を撒き散らす元凶である。かつて、かつてと言ってもたった数年前まで、文字を公にすることには大きな敷居があり、それを超えて人々に何かを訴えかけることができる人は、世の中で数限られていた。誰もが知っているとおり、状況は大きく変化した。ところで、書籍や新聞、雑誌といったマスメディアには編集者がいて、ひどい文章はそれらの専門家がスクリーニングをし、修正をほどこしたうえで世に送る。これに対してブログにはそうした選別や修正の機能が存在しない。誰もが、好きなだけ、下手で、間違いだらけで、意味のない文章を世に送り出すことができる。

そうした文章がモニター上に氾濫し、これからの普通の日本人は、ブログやmixiや携帯上の文章を読んで育つ。こうしたシステムの中でできあがる規範と審美的感性は、旧来のそれらとは必然的に異なるものになるはずだ。文章に対する嗜好は大きく変化するだろう。そこで人々のお手本となる文章は、夏目漱石や戦後日本文学どころか、新聞の文章、雑誌の文章とも隔たったものとなる。これは、水村さんの文脈にしたがって言えば、日本語にとっての滅びの道だろう。『日本語が亡びるとき』を書いた水村さんは、おそらくブログなんぞとはまるで関係ないところにいらして、こうした変化の現場をあまりご存知ではないかもしれないとも思うのだが、ネット空間の中で起こっている現実は、英語との関係を云々する以上に直接に日本語を変えるファクターとして働いているはずだ。

この変化のときを水村さんのように「亡びるとき」であると考えるかどうか。