感性は国境を越えない(オーケストラの話)

オーケストラの音は楽団によってずいぶん違う。ひとりひとりの楽員の音が違うのだから、当たり前といえば当たり前で、同じなわけがない。東京のオケだって、それぞれに特徴がある。


そのことを認めたうえで、しかしオケの音には地域による特徴が明らかにある。何が言いたいかというと、アメリカと欧州のオケの音の差である。アメリカのオーケストラの音量、とくに金管のパワーは欧州のそれとは桁違いだ。シカゴも、クリーブランドも、ボストンも、ニューヨークも、フィラデルフィアも、サンフランシスコも、ロスも、ミネソタも、ヒューストンも、ピッツバーグも、僕が聴いたあらゆるアメリカのオケには、まばゆいばかりのブラスセクションがあった。日本のそれと比べても、欧州の楽団と比べてもまったく違う楽器に聞こえる。


僕が好んで聴く後期ロマン派の作曲家にブルックナーの音楽があるが(日本のおじさん趣味だ)、弦の深さとブラスの迫力が個性のブルックナーアメリカのオケで聴くとホールは金管の咆吼に包まれ、強烈な音量に神経が鳥肌立つような体験をする。しかし、一方でアメリカのオケのブルックナーブルックナーじゃないというファンは日本にも多い。それは分からないではない。というか、よく分かる。ドイツのオケが奏でるブルックナーには明らかにアメリカのオケが奏でるブルックナーにはない滋味があると、これはかなり浅薄な一般化のそしりを免れ得ないかもしれなけれど、認めるにやぶさかではない。ドイツのオケでブルックナーを聴き慣れた人が「アメリカのオケの金ぴか趣味」といった悪口を言うのは、誇張ではなくて正直な感想なのだと思う。


かくいう僕も、ニューヨークでアメリカのオケばかり聴いていた頃、小澤征爾が指揮するウィーンフィルマーラー交響曲第2番『復活』を演奏するコンサートに出かけた際に、あれ、ウィーンフィルのブラスはこんなものだったっけという思いにおそわれたことがある。これは僕だけの感想ではなかったようで、あるアメリカ人が書いていたかなりしっかりとした演奏会評のウェブページで「あのブラスではアメリカでは受け入れられない」と書いてあるのを、その直後に読んだのだった。実はそれは趣味の違いというべきものを、あたかも彼が持っている任意の尺度で測るという愚を犯した結果ではあったのだけれど、言いたいことはよく分かったし、アメリカ人の耳のよいリスナーがそのように典型的な欧州のオケを読む傾向があるのはむべなるかなと思った。アメリカにいる間に、欧州出張に出かけると、やはりミュンヘンフィルやゲヴァントハウス、フランクフルト放送響などの一流オケをその土地々々で聴いたが、地味に聞こえるのだ、アメリカのオーケストラの音に慣れてしまった耳には。


明らかにアメリカのオケにはアメリカという国が持つ精神風土が息づいているわけで、そこには究極的な強さ、華やかさ、馬鹿でかさといったものに対する志向が如実に反映されていると考えて間違いない。少し、話を作りすぎていると思われるかもしれないが、ニューヨークで4シーズン、オーケストラを聴きまくった最後を締めくくるようにタングルウッド音楽祭で聴いたジョン・ウィリアムス指揮するボストン交響楽団の『スター・ウォーズ組曲。例のファンファーレ付きのメインテーマがアメリカで聴いたオーケストラ音楽のなかで最高だったと僕自身は感じている。


僕のように数年いただけでそんな感覚に浸ってしまうのだから、生来その土地で過ごせばその感覚は疑う余地が100%ないものとして人々のなかに定着するのは当たり前だ。そこを一歩引いて、「実はこれもあれば、あれもあるのだ」というものの見方を日常生活になかに持ち込むのはなかなか容易なことではない。