感性は国境を越えない(お人形さんの話)

しばらく前に『mmpoloの日記』(id:mmpolo)で、外国で暮らしたある日本人の方の話として、最初はまったく分からなかったが、数ヶ月経った頃からどういう女性が美人かがはっきりと分かるようになってきたという話が紹介されていて面白く読んだ。僕も、しばらく外国暮らしをしてみて、それは感じるところがある。次第にこういうのがこの国では美人なんだなと思われる類型が知識として頭の中にインプットされるようになる。だいたいにおいて、それはメディアで取り上げられているモデルや女優の写真やそれに対する人々のコメントを見聞きしているうちに理解されていくようだ。ところが、少なくとも自分にとってはということだけれど、そうした見解や理念は、あくまで知識として分かるというにとどまるのが面白いと思った。つまり、この国ではこういう女性がいいと思うんだなということまでは分かるのだが、その理念型としての美女は、僕の感覚とは合致しない。雑誌やテレビに露出する美女たちは、日本人の僕には研ぎ澄まされたきつさを発散させていてちょっとついていけない感じがしたものだ。


90年代後半に遡る話だが、ニューヨーク・タイムズを読んでいたら、人形のバービーちゃんの記事があって、世界的にヒットするバービーちゃんも日本ではリカちゃんのようなライバルがおり、イマイチ受けずに苦戦しているといった類の話題が書かれていた。


その中でアメリカ人の関係者がこんな風に語っている部分があって、思わずぎょっとして立ちすくんだ。書かれていた文句はこんなだ。

「バービーは彼らには美しすぎるのです」

ニューヨーク・タイムズは日本に対する偏向記事が多いというテーマで単行本も出版されていたから、これぐらいのことで驚くことはないのかもしれないが、個人的にはひっくり返った。語る方も語る方だが、載せる方も載せる方だと思ったのだが、同時に、たぶん、語る方も載せる方もかなり大まじめだろうなとも直感的に感じもした。「バービーは美しすぎて日本人には分からない」のだ。


当時の僕はニューヨークにいて、お人形さんごっこを卒業する前の女の子と暮らしていたから、バービーちゃんもうちに何体かやってきたが、彼女にとってもリカちゃんの方が受けがよかったように覚えている。僕自身にとっては、バービーちゃんは、スーパーモデルさんなんかと一緒で、発散するムードが明らかにちょっとこわい。おそらく、日本人の子どもたちにも米国人の美しさのイメージをデフォルメしたバービーちゃんを愛玩の対象としてもらうには無理が大きい。「美しすぎる」からではないのは言うまでもない。というわけで美的感覚が文化の垣根を越えるのはけっこうたいへんだと実感したというお話でした。