平野啓一郎著『マチネの終わりに』

平野啓一郎の『マチネの終わりに』は、形の上では恋愛小説だけれども、同じ著者の『ドーン』がSFの形を取りつつ、実際にはコミュニケーションの問題を掘り下げようとしているように、主人公二人の恋愛それ自体の成り行きを出来事の柱としながら、恋愛について語ろうとしているわけではない点で、似たような韜晦さに包まれている。

物語は、39歳になる売れっ子のギタリスト蒔野聡史が、大成功を収めたサントリーホールでの『アランフェス協奏曲』のコンサートの夜に、フランス通信社の記者であり、著名なユーゴスラヴィア出身の映画監督の娘である41歳の小峰洋子と知り合うところから始まる。小説は、この二人の恋愛の行方を数年に渡って追うのだが、二人は小説の最初の章で出会い、その数カ月後にヒロインが住むパリで再開した後は、長い小説の間、大団円を迎えるまで顔を合わせることがない。その間、二人はメールで連絡し、スカイプで頻繁に話をする機会を持つのだが、リアルの場で会うのはたったの三度だけでしかない。

では、小説の中では何が起こるのかと言えば、演奏家としての不調、イラク戦争取材がもたらしたトラウマという個人の危機を抱えた二人が、相手の存在故に抱え込んだ三角関係に悩まされ、様々な個人的な問題に直面しつつ、それらに立ち向かう個人の内面のありようが描かれるのみで、華やかな濡場などとはまるで無縁である。だから、この作品を普通の意味での恋愛小説と思い込んで読み進めると、いつの間にか読者は置いてきぼりを食らう。物語の半ば、折り返しのクライマックスで、主人公二人が幾重にもありえないミスをしでかし、物語にとって決定的なすれ違いが起こるのだが、これは筋としては、明らかにやりすぎで、しらけた思いにさせられた読者は私だけではないのではないかと思う。

それまでは、「これからどうなるのだろう?」という思いでプロットを追っていたのだが、この場面を読んだとたん、この作者は、なぜ、こんな陳腐な事件を起こして主人公たちを困らせるのかと困惑が広がり、ページをめくる手が止まってしまった。そして、それから何十ページかをめくった後に思い至ることになった。
「これは、そうした展開の面白さを楽しむ恋愛小説ではないのではないか?」
あらためてそう考えてみると、すべては腑に落ちる。そもそも、この二人が相思相愛の関係になる物語の始まりも、思い返してみると作者の強引さが二人をつなぎとめているのであり、この人の筆力がなければ、通常では決してありえない非現実的な関係なのだった。

だとすれば。作家は、とくに平野啓一郎のような全体小説的な作品を志向する作家は、筋書きの妙ではなく、その後ろに隠された真実を表現しようとしているに違いない。そう思って読み続けると、この本の真骨頂のようなものが見えてくる。どうやら作者は、『魔笛』のパミーナとタミーノのように、わざと主人公二人が試練をくぐるべく、ややもすれば作り話が過ぎるほどに物語を動かし、それによって読者に対し何かを言いたいようなのだ。

そこで、こういう風に受け取ってみた。ある人生が自身の思う通りの方向に進まなかったとして、人は自分のそうした人生をいかに受け止めるべきか、仮にに逆境にあったとしても、それをいかに裏返して現実をよきものとして受け止めていくか。いくつも含まれていると思える細かいテーマはさておき、ざっと一括りにすると、そういう小説を平野さんは書いている。そのように考えると、この作品は、読者に力を与える、とても、とてもよい小説であるということができる。

音楽小説として読むと、例のへっぽこコンクール小説とは段違いの洗練を見せて素晴らしい。本来、語れないはずのものに対する節度が違うし、音楽が小説の成り立ちと分かちがたく結びついている点で、この作品は間違いなく音楽小説である。

小説の冒頭、サントリーホールのコンサートの後に関係者の慰労会が行われたイタリア料理店で、古い記憶が、新しい出来事によって書き換えられるという内容の逸話を小峰洋子が語る。この話は、この物語の骨格の一つでもあるのだが、その逸話に反応して、主人公の蒔野が言う。

「いや、ヘンじゃないです、全然。音楽ってそういうものですよ。最初に提示された主題の行方を最後まで見届けた時、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか? ベートーヴェンの日記に、『夕べにすべてを見とどけること。』っていう謎めいた一文があるんです。ドイツ語の原文は、何だったかな。洋子さんに訊けば、どういう意味か教えてもらえるんだろうけど、……あれは、そういうことなんじゃないかなと思うんです。展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。」

この小説は、この後に、蒔野が言う「音楽」を「この小説」と言い換えれば、まさにそのままにあてはまるような展開を見せる。

音楽そのものの扱いも堂に入っている。例えば、主人公が弾くバッハの「無伴奏チェロ組曲」が主人公たちにとっての重要な作品として登場するのだが、この曲を指して「人間的な喜怒哀楽の彼方に屹立するバッハの楽曲」と呼ぶのは、「人間的な喜怒哀楽」そのものである主人公たちの状況を際立たせる通奏低音という意味を考えるとお見事というほかはない。

平野啓一郎の作品は、テーマの重要性ありきで、反面、筋立てが人工的で無理がある部分がある部分で、心底納得させられたことは一度もないが、読むたびにその筆力に驚嘆させられるのも、また間違いないことだ。


マチネの終わりに

マチネの終わりに

平野啓一郎著『ドーン』、『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』

入院患者となって無聊をかこつ身になり、体力の続く範囲で読書をした。読んだ本のうち、話題の音楽コンクール小説について語気は控えめに「物足りない」と感想を書いたら、それを読んだ友人が、おそらく音楽家を主人公にしている良質な小説という意味で、平野啓一郎の『マチネの終わりに』を紹介してくれた。これがよかったので、もう一本続けて「平野啓一郎を読もう」と手に取ったのが『ドーン』だ。『マチネの終わりに』については、またあらためて別の機会に書くことにして、今日は『ドーン』について少し。

半分ほども読み進めてから「いつ書かれた本だろう?」とページをめくって奥付を確認したら刊行は2007年とあった。10年前に書かれた小説だ。平野さんの本は最初に『葬送』を読んで、その時の驚きは正直にこのブログの過去エントリーに残されている。


■平野啓一郎『葬送』を読む』(2006年9月13日)


この『葬送』をめぐる過去エントリーが2006年9月なので、『ドーン』はちょうどその頃に書き進められていたことになる。ということは、ネット社会の動向に関心がある(あるいはあった)者にとっては、それは梅田望夫平野啓一郎共著の『ウェブ人間論』(2006年12月)が新潮社から出た年なのであり、『ドーン』にはネットの普及が個人の人格形成に与える影響について考えていた平野さんの思いが小説の形で開陳されている。知らなかった私は「こんなの書いていたんだ」と今頃になって感心したのだけれど、昔読んだことがある人にとっては、今頃何いってんだかという話でしかないかもしれない。

『ドーン』の時代背景は近未来の2030年代に設定されており、主人公はNASAに勤務する日本人宇宙飛行士である。彼は人類初の火星有人探査のクルーとして2年以上にわたる宇宙旅行から帰還を遂げたばかりだが、帰ってきた世界は東アフリカで続いている戦争で疲弊している。警察国家として国の威信をかけ、あるいは産軍複合体の欲望に背中を押されるままに、時の米国は泥沼化しているこの東アフリカ内戦にのめり込んでおり、火星からロケットが戻ってきたこの時期、海外派兵の是非を主要な論点とする大統領選が大詰めを迎えようとしている。

このような書割にもとづいて物語が進むため、本は読み始めこそSFなのかなと思うが、肝心の火星での描写はほとんどないし、本編を通じて執拗に繰り返される『ドーン(Dawn)』(というのが宇宙船の名称だ)での出来事は、主人公たちの回想やメディアの報道記事などで語られるばかりであるため、SF小説を読みたい読者には肩透かしをくらう人も多かっただろう。むしろ米国の国内政治のドロドロと候補者同士の攻防が素材としては中心で、読んでみると政治小説の色が強いのだが、ただ、2017年の現在に読むと、この本が2007年に想像していた2030年のリアリティはすでに薄れてしまっている。それにそもそも、平野啓一郎の小説には、なんというか、筋立ては二の次みたいな部分がどこかにあり、500ページの饒舌な大著に最後まで付き合うのは骨の折れる部分があった。

それでも興味深い読書になった。というのは、平野さんの相当にアクの強い文章の引力が惹かれるのと、物語の中で展開されている「分人主義」なる主義主張が、ネットの時代の思想ないし処世術として考えるヒントになり、それが面白かったからだ。平野さんは2012年に『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』という新書を出しており、ここであらためて彼が提唱する「分人主義」について解説する。こちらは、たまたま数年前に手にとって、読んだことは読んだが、その時には正直もう一つピンとくるところはなかった。

個人(Individual)は、「in-divudal」で、語義的にもこれ以上分けられない存在として規定されている。平野さんは人間は他者とのコミュニケーションにおいて、それぞれの個別の関係によって異なる、一つではない個人=「分人」(divudual)の集合体だと考える。親との関係によって生じる「分人」、職場で生じる「分人」、仲の良い友達と接している時の「分人」は、それぞれ別の人格として存在し、育つものだと言う。個人の自我はタルトを切り分けたピースの集まりみたいなものだと位置づけらえる。人間の自我って実はそんな風にできていて、社会学でいう「役割」や、若い世代が言う「キャラ」よりも個人の核に根ざしたものだと平野さんは言う。

こんな風に一人の人格を捉えることによって、どんなよいことがあるのかというと、自我(の一つ)を育てるのは他者とのコミュニケーションであるという認識が社会的に固定されることによって、その重要性が明確になるし、ある人間関係で悩んでいたとしても、それはある一つの自我に関わる問題に過ぎないのだから、ことさらに思い悩む必要はないんだよと自分自身に対して逃げも打てるようになる。とまあ、そういうことのようなのだ。

「分人」には少々無理なところがあると思いもするが、個人にとっての他者とのコミュニケーション(特にその不全が生じたときに感じるそれ)の重要性という点では2ヶ月の入院生活でひどく思い知らされたので、共感を覚えた。『ドーン』では、主人公が狭い宇宙船の中に6人のクルーの一人として閉じ込められ、それによって井伏鱒二山椒魚さながらに良くない性質を帯びるのだが、その気持ちは病室の天井を見上げながら溜息をついていた者にはよく分かる。病室は宇宙船とは違い、嬉しいお見舞いのお客さんがあり、メールのやりとりがあり、ブログへの返信があるので、閉塞感は限られたものでしかないが、病人には社会から閉ざされた宇宙船の物語は身につまされてしまう。

一方で、個人は複数の自我の集合体であるという主張については、入院患者はまるで逆の思いを味わった。様々な友人関係、勤め先での関係、家族との関係には、表に現れる行動や行儀作法はそれぞれに違うものだと本人も思っているところがあり、それは平野さんの「分人」が教えるとおりだが、しかし、つまるところ病気を抱えた身体は、どの「分人」にも等しく大きな影響を与え、一つの体と一つの心を持つ自分を意識しないではいられない。身体と心とは切っても切れない存在であるというのが、そこから導き出される感想で、複数の自我を想定してみるよりも、一つの自分の周りに存在する複数の役割を想定する方が余程分かりやすく実用的である。

もう一つ、入院してみて思ったのは、人というのは常に自分と会話をするものだなあということだ。ベッドに寝っ転がって何もしない時間、いろいろなことを考える。それは自分が自分と会話を行うことに他ならない。たぶん、普通の日常生活においても、家族や、友達や、会社の上司やお客さんや様々な人たちとコミュニケーションを取りながらも、心の真ん中では自分がもう一人の自分と話をしながら、表に現れる役割に正当性を与えたり、あるいはその成り行きにがっかりしたりしているのだろう。そう考えると、最終的には、自分の心の真ん中を鍛える他に人生を生きやすくする道はないのだろうと思う。どんな人間関係があろうとなかろうと、最後に死ぬ時は人間みな一人であるわけだし。


ドーン (講談社文庫)

ドーン (講談社文庫)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

友達とIT技術の有難味

昨日午後、ブログ仲間が企画したお楽しみ会が某所であり、勢川さん発案のビデオ中継のおかげでバーチャル参加をさせていただいた。

「バーチャル」と書いたけれど、それは言葉のあやみたいなもので、無機質な病室に垂れ込めている者にとってはビデオ参加は「リアル」以外の何物でもない。会場の雰囲気や、その場の喧騒や、富士川さんの手打ちそばをすする音や、みんなの笑顔が一挙に押し寄せて、それはそれはリッチな時間でした。でも会場側は、それなりに重みのある勢川さんのiPadのカメラを誰かが手に持って動き回る方式だったようで、その様子を想像すると、あら大変そうと思ってしまったことでした。ご協力頂いた皆様どうもありがとうございました。

皆さん、またぜひやりましょう。退院したら声をおかけします。いつできるかは分からないけれど、日本全国あちこちをつないで楽しく賑やかに集いましょう。

恩田陸著『蜜蜂と遠雷』


本を読む元気が出てきた。
難しい本、考えることを要求する本に立ち向かう体力はまだないので、よし、エンターテイメントを読もうと思った。そこで選んだ一冊が恩田陸著『蜜蜂と遠雷』である。今年の直木賞本屋大賞のダブル受賞作。ピアノコンクールを題材にした作品であるので、音楽好きにとってはそれだけで惹かれるものがあるし、著者が浜松のピアノコンクールを取材したと聞いて、ここ数年浜松を訪れる機会がある身としてもますます興味が湧く。時間を持て余す者の読書には悪くない。

作品は日本の地方都市で行われるピアノコンクールに挑戦する4人の若者と彼らの関係者、コンクール関係者(もっというと審査員)をめぐる群像劇である。それぞれに特徴的な過去と個性を持つ4人が、それぞれの動機を有してコンクールに参加し、審査員から評価され、自身を評価し、互いを知り合って刺激を受け、評価しあい、第一次予選から本線の高みを目指していく物語である。その過程を通じて主人公たちと読者は、音楽とは何か、自分の人生にとって音楽とは何かを考えることになる。

おおまかなプロットは以上のごとく極めてシンプルで、ミュージシャン同士のあからさまな対立やイジメが起こるわけではなく、主人公たちは読者を冷や冷やさせるお馬鹿な勘違いを起こすわけではなく、コンサートホール爆破のような突飛な事件が起こるわけではなく、ひたすらコンクールのリアルなありさまが丁寧な取材に基づく記述で徹頭徹尾描かれる。この点ではたいへん良質な小説である。

そうしたリアルな舞台で繰り広げられる人間関係は、一変して、ご都合主義的青春小説に仕立てられているところが面白い。小説中で展開される主人公たちの人間関係は、一種の理想主義、教養主義的で、4人は演奏を通じて互いを理解しあい、自分の演奏を高めるよすがとし、よしんば個人的にもお友達になってしまう。この辺りは、周りは皆が敵であるはずの本物のコンクールではありえない話だろう。この4人のうち、とくに3人については聴衆が注目する3人の天才という設定になっていて、凡人には当たり前の敵愾心や半目は、彼らの中では起こることがない。一人はパリの予選で突如現れた規格外の演奏をする弱冠16歳の日本人の天才、一人はコンクールの前から期待されているエリートであるところのアメリカの天才、もう一人は神童として12歳までコンサート活動をしていながら母親の死を契機に演奏家からのキャリアから遠ざかった天才という設定。

オリンポスの神々がコンクールを通じて交歓をするさまを描くようで、清々しさはあり読んでいて悪い気持ちはしない。しかし、まなじりを決してトップを目指している同士が参集するというコンクールのリアリティはどこかに行ってしまうし、そもそも、こんなコンクールに都合よく天才が何人も集まるのかよ、と呆れてしまう部分がエンターテイメントならではのご愛嬌だ。この種のエンターテイメントが好きな人は、こういうご愛嬌が大好きなのだし、そこに文句を言っては物語が動かないということなのだろう。星飛雄馬花形満と左門豊作がいなければ『巨人の星』は始まらない。

そこまではよいとして、この本の一番の違和感の素は、音楽や演奏そのものの表現だ。

これは引用して文章を読んでもらうに限る。まず第一次予選に主人公の一人、サラリーマンの身でありながら、一念発起でコンクールに応募した明石の演奏を奥さんの満智子が聴く場面。

満智子は目が開かれる思いがした。
それは満智子だけでなく、他の観客も同様だったようだ。やれやれ、やっと最後だという疲れた雰囲気だったのに、皆、覚醒して背を伸ばしたのを感じた。
明石の音は、違う。同じピアノなのに、さっきの人とはぜんぜん違う。
明快で、穏やかで、しっとりしている。活き活きとした表情がある。
やはり音楽というのは人間性なのだ


さらに同じ一次予選で、この本の中でもっとも型破りな演奏をする天才少年の風間塵が初めて演奏をした場面の中から。

どうしてこんな、天から音が降ってくるような印象を受けるんだ?
遠くからも近くからも、まるで勝手にピアノが鳴っているかのように、主旋律が次々と浮き上がってきて、本当に、複数の奏者が弾いているのをステレオサウンドで聴いているように思えてくる。
そう、音が尋常ではなく立体的なのだ、なぜこんなことができるのだ?


風間塵が2曲めにモーツァルトを弾くと。

胸がざわざわする。どきどきして、身体の奥が熱くなってくる。
まさにモーツァルトの、すこんと突き抜けた至上のメロディ。泥の中から純白の蕾を開いた大輪の蓮の花のごとく、なんのためらいも、疑いもない。降り注ぐ光を当然のごとく両手いっぱいに受け止めるのみ。


そして、次はバッハ。

平均律クラヴィーア。これはもう、彼の、風間塵の演奏としか言いようがない。これはこれでスタンダードになるのではないか。
訥々と、それでいてなんとも言えぬ歓びに溢れた音。誰の演奏にも似ていない。
素朴なのに官能的で、一種煽情的ですらある。


これはまだ一次予選の出来事である。この後に本書の音楽描写のクライマックスである第二次予選に突入すると、演奏のレベルはさらにものすごいことになっていき、ありきたりの美辞麗句はメガ盛りの様相を呈していく。その大喝采は、ここに出て来る主人公たち以上の演奏家が地球上にいるとは信じられなくなるほどである。

これは作者の明確な意図でそうしているのだと思うが、音楽を描写するのに一般的な音楽用語や、楽典、演奏史に基づく演奏様式論、実在する有名プレイヤーの演奏との比較など、専門的な知識を用いることを徹底的に排除している。そういうものに慣れていない一般的な読者をおもんばかっての方針だとは思うが、そうすると演奏の記述はかくのごとく、すごい、他とは違う、感動的な、今まで聞いたことがない、心に響くなどといった類の言葉をいかに洗練させて組み合わせるかの勝負にしかならず、積み上がるのは言葉ばかりである。

その割に、いったいこいつがどんな演奏をしているのか、本当はどんな音が鳴っているのか、思いを巡らしてもさっぱり実感できないころが困ってしまう。とくに物語の中でぶっ飛んだ演奏をして審査員の評価を二分している16歳の天才、風間塵君の演奏について、もう少しイメージを提示してほしいと思う。要は特別な技術と感性は持っていても、著しく様式感に欠ける演奏であるということなのだろうとは想像するが、さきほどのバッハやモーツァルトの演奏の場面を読んでも、批評家真っ二つみたいな変な演奏には思えないし、どう違和感があるのかが聴こえてこない。ここがこの小説のいちばん辛いところだ。

昭和40年代、一世を風靡した野球劇画、『巨人の星』は架空の人物たちをリアルタイムのセ・リーグに配置し、子供心には川上監督、王、長島とともに頑張る星飛雄馬は俄然リアルな存在に思えたものだ。しかし、振り返ってみると、見えないボールを投げて三振の山を築く星飛雄馬がなぜパーフェクトを達成しないのか、メジャーリーグカージナルスからやってきて「見えないスイング」であらゆるボールをやすやすとホームランにするオズマは何故ホームラン王にならず、王貞治の後塵を拝しているのか、謎な出来事満載なのである。
だけれども、読者の子供は、劇中のアナウンサーと解説者が星飛雄馬の投球に対して絶叫したり、息を呑んだり、額に脂汗を垂らすのを見て、その驚きに心を同期させたのだった。

蜜蜂と遠雷』も『巨人の星』みたいなもので、日本の音楽コンクールを舞台に同じことをやっていて、聴衆が常に美辞麗句でもって静かに絶叫していると思えば、本書の印象はほとんど言い尽くした感じがする。

でも、それをされても音楽は聴こえてこない。これは辛い。少なくとも音楽本としては楽しめない。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

千客万来

先週末にかけては何人もの友人が病室に足を運んでくれた。
以下の人は個人名を出しても問題ないと思うので紹介すると、金曜日には古い友人であるアウトロジックの杉本さん、その夜には、かの美崎薫さん。土曜日には前週にもお越しいただいた下川さんが木下さんと一緒に。日曜日にはアテナ・ブレインズの福田さんとクラウドワークス執行役員にしてオーケストラの打楽器奏者である安西さんが来てくれた。

一人ぽつんと過ごす病院生活でお客様があると、お客さん一人の存在は寝っ転がっている病人にとっては何十、何百人にも匹敵する有難味があり元気の素である。その意味で週末は千客万来だった。有り難し。

二郎さんの番組

昨晩のNHK特集で「すきやばし次郎」の小野二郎さんの番組をやっているのを観た。「寿司の神様」であるところの二郎さんと、「天ぷらの神様」と呼ばれているという天ぷら職人の早乙女さんとの友情と職人魂を描いた番組だった。

91歳になって、その分野の頂点に立ち続ける二郎さんは、間違いなく怪物である。異常な執念の人である。体調を崩しながらも握り続ける仕事への執念は、仕事をしている最中に死にたいと本人に言わしめる。70歳を過ぎた早乙女さんも二郎さんを超えることを目標に日々技を磨いているというお話。

おそらく年若い制作者が、仕事でキャリアを築いている最中、築こうとし始めている年代の視聴者を念頭に置いてつくった番組ではないかと思う。とてもきれいな内容で、一流の職人の仕事にかける尋常ならざる執念がくっきりと描かれていた。これを観て、職業人としてのプライドを刺激され、背中を押される人たちは多いはずだ。「頑張る」ことの素晴らしさを肯定するよい番組だった。

しかし、職業人として向上する時期が終わってしまった者、頑張ろうにも頑張れない者にとって、そこで描かれていた倫理や価値観は自分のものではない。まるで別世界の話だ。そうした「我々」にとって、よりよく、心豊かに生きる糧とはなんなのだろう。などとぼんやり考える。

病室のドアが空き、そこに大きな人影が現れると

入院すると世話になるお医者さん、看護師さんと家族に毎日の生活を預けているような塩梅で、それが目下の世界のすべてである。
そこに、思いがけないタイミングで友人が顔を見せてくれると、白黒の病室が総天然色、4Kのテレビに変化したかのように感じられる。人の温かさの有り難みを感じ続けています。
昨日は、下川さんと瀬川さんが来てくださった。