ラグビー・ワールドカップはまだ佳境なはずなのだけれど

昨晩、今年の日本シリーズ福岡ヤフオクドームで開幕した。その始球式に呼ばれたのが、ラグビー日本代表の五郎丸選手。いまや時の人、日本中に名のとどろくスーパースターである。

そのオールスターでの始球式のちょうど6時間後、英国の地ではラグビー・ワールドカップの準決勝、優勝候補筆頭のニュージーランドと日本に負けたラグビー大国南アフリカが刃を交えるという世界中が注目する一戦の開始の笛が鳴り、大会は佳境を迎えていた。

ところが日本のテレビニュースを見ているかぎり、日本チームと五郎丸の帰国とともにラグビーのワールドカップなんぞは、とっくの昔に終わってしまったかのよう。さらには、まるで五郎丸ひとりが、その他大勢の大男どもをを引き連れて試合をしてきたかのごとき、まことに思い切った注目のつくり方で、そもそもラグビーそれ自体は「五郎丸選手がやっていたスポーツはラグビーでした」程度の、後からなんとかついてきたおまけの感すらある。

日本にとってはラグビーは二の次で、日本代表チームの成績とミーハーがついてまわるスター選手の活躍だけが興味の的なのだとすれば、今回英国を中心にラグビーの美しさ故に世界のあちこちで「日本」が連呼されたのと、日本国内での盛り上がりは本質がまるで違うことになる。同じ事象を焦点距離が異なるレンズで眺めているようなものだ。これをきっかけにトップリーグや4年後の東京でのワールドカップが盛り上がれば素晴らしいが、せいぜい日本代表がんばれモードに終始するようだと、結果的にはラグビー人気は長くなさそう。少々悪い予感がする。

日本の大手メディアは、ほんとダメだなと思う。五郎丸本人がラグビーにスターはいらないと言っているのに、分かりやすいスターを見つけてはおだて上げる。五郎丸なら、NHKテレビ東京などのラグビー中継ではこの10年間、大学一年生のころからずっと露出していたのに、と思わずにはおれない。大衆への媚は一流で、褒めるも、叩くも、売れるものにはみんなで迎合。ビジネスがかかっているから、瞬間の節操など機能しない。昔、昔、戦時中にはさまざまに国民の戦意を高揚した大新聞が、戦後本質的な自己批判をせずに転向していった構図は、社会の中でいまもそのままなのかなと思う。空気に乗って今現在を盛り上げればいいだけだ。空気を作るのは国民なんだよという申し開きは認めるとしても。

ただ、今の時代が幸せなのは、日本でじっと暮らしていても、メディアのあちこちではさまざまな事実は報道されているし、なによりもWebを通じて海外の報道や個人の声が直に聞こえてくることだ。それがあるがゆえに、市民には、より客観的にわが身を思い、より理性的に振舞うことができる余地が生じている。プロパガンダに簡単にはやられない素地は作られつつあるのではないか。そう思いたいが、お侍の時代から明治を経て培われ、いったんできあがった体質はなかなか変わらないものでもある。ともかく、いろんな流れはある、ということで。