自然は変わらないが、人の欲望はもっと変わらない

先日、白馬岳の帰りがけに蓮華温泉を訪れたら、蓮華温泉ロッジの廊下に、日本アルプスの紹介者にして日本に近代登山を導入した人物であるウォルター・ウェストンの写真と、彼がこの地を訪れたことを紹介する一文が掲げてあった。

ウェストンは、19世紀後半の神戸や横浜に住んだ英国人で、登山を趣味とし、欧州アルプスも歩いていたアルピニストだった。そんな人物が仕事で数年間滞在した日本の山に興味を引かれ、土地の漁師らをガイドやポーターに雇いながら、毎年のように北アルプスを中心とした信州の山々を踏破する。猟のための登山と信仰登山しか存在しなかった当時の我が国において、楽しみのために山を登ろうとする人間など外国人しかおらず、ウェストンは日本アルプスの事実上の命名者(この言葉を最初に使ったのは別の英国人だそうだが)にして、ありんこのように連なって夏の稜線を歩くものずきの先祖となった。
毎年上高地では、ウェストン祭と呼ばれる観光行事が行われている。

平凡社ライブラリーに入っているウェストン著『日本アルプス』、その第11章が白馬岳登山の話に宛てられている。彼の山行は1894年のことだ。当時、ウェストンは上野から電車で北上し、直江津からは船に乗って糸魚川に上陸、そこから蓮華温泉に向かったのだった。昔は山に登るためには電車や人力車を乗り継ぎ、単調な山麓のアプローチを何十キロも歩き、、長い休みの大半は山に行くまでに費やされていたのが分かる。

この本を読むと、ウェストンはこの山を大蓮華山(おうれんげやま)という名前で紹介し、「大いなる蓮の峰」という意味だという注釈も付けている。白馬岳(しろうまだけ)という名称は、田植えの時期に切り立った信州側の斜面に表れる代かき馬の雪型の存在に由来しているので、今の長野県の人はこの山のことを白馬岳、今の新潟県富山県の人は大蓮華山と呼んでいたということらしい。同じ人物のことを甚兵衛さんと呼ぶか、雅治さんと呼ぶのかぐらい印象は違うが、山の場合、よくあることだ。マッターホルンはイタリア側ではチェルヴィーノ、フランス側ではモン・セルヴァンと呼ばれていた。同じことが昔の日本でも普通にあったということだろう。人間も、相対するコミュニティによって名前が違ったり、同じ人物が少々異なる風に受け入れられたりすることはある。実名で暮らすリアルの日常とハンドルネームのインターネット生活というのも、その類かもしれない。日本アルプスを愛したウェストンも日本という異国での生活、さらにその先の異境である日本アルプスに身を置くことで、自分自身の中に幾種類かの人間を発見して楽しかっただろうと想像してしまう。

写真は、この本の中で紹介されている当時の蓮華温泉。石で屋根をおさえた粗末な建物が並んでいる様子は、今日そこにある立派なロッジを訪れたばかりの者にとっては同じ場所とは思えない。ここにこそ異なる名前が付いていていいのにと思ってしまう。




ところが、どこか新しい記憶を刺激するものが写真にはある。そこで、温泉の内湯で撮った写真をとりだしてみたところが、背景をなすすぐ向う側の尾根が同じ角度で空を切り取っている。写っているのは紛うことなく同じ蓮華温泉だ。



この白馬登山の様子がウェストンの手によってどのように紹介されているかといえば、蓮華温泉に入るまでの道すがら、蓮華温泉の様子にはそれ相応の枚数がさかれているのに、蓮華温泉から白馬頂上に至り往復して温泉に戻る行程は、途中に銀山で親切にしてもらった様子を含めて、文庫本のたった1ページ半にしかならない。

この人の山登りの描写はどれも同じように淡泊で、あっという間に終わってしまう。むしろ、常に書き込まれるのはアプローチの様子であり、そこから染み出してくるのは、これから山に向かう期待感である。我々百年後の読者にとって当時の日本はすでに遠い世界だが、ウェストンが著した登山に臨もうとする者のわくわく感は、今の登山者たる我々が常日頃感じるものそのままで、そのことに驚きを感じる。

ちなみにウェストンが大蓮華山と書いた白馬岳の長野側の麓は白馬村(はくばむら)となり、最近の登山者の中には白馬岳を「しろうまだけ」とは呼ばずに「はくばだけ」と呼ぶ人もいるらしい。物の名前や言葉の賞味期限はあらためて案外と短いものだなあと思う。


日本アルプス―登山と探検 (平凡社ライブラリー)

日本アルプス―登山と探検 (平凡社ライブラリー)