1年の修行

かれこれ1年以上になる。昨年の春先、ある成り行きから翻訳の手伝いをすることになり、いったん昨年5月に手伝いが終わったと思ったら、結局夏から秋にかけて、さらには年末の時期に、最後は3月からと、ある作品の周囲をめぐるようにして1年少々の時間を過ごした。

携わったのはある種黒子のような仕事で、世間様から褒められたり、金銭的な報酬が期待できたり、という利益とは無縁の営みである。ボランティアという言葉がそのまま当てはまる作業だと言ってよい。勤めから帰り、食事をして風呂に入り、テレビニュースを見て、寝るまでの時間は限られている。その短い時間に外国語と向き合う。そんな日々を過ごしてきた。しばらくブログをおざなりにしてしまった感があるが、ともかく理由はそういうことで、端的に時間がなかったのである。

この翻訳、外面的にはボランティアだが、自分の中では、それはあくまで自分のために取り組んでいたわけで、無理矢理に言葉を当てはめると修行とでもいうべき行為である。

ただ、修行が精神の鍛錬、技術の習得、仕事の習熟といったくっきりとした目的を備えたものだとすれば、私のそれはそんな大それたものでも、確固としたものでもない。では何?と思いを巡らすと、暇つぶしという言葉にぶつかった。まあ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それを修行と読んだり、暇つぶしと読んだりしているという部分に自分自身の課題があるなとは思う。ともかく、計算や戦略とは無縁の人生で、自分のことながらやれやれである。