冷静で民度の高い日本人

地震の際に利己的な行動に走ることなく整然と行動した日本人に対し、世界のあちこちで驚きと賛嘆の声が湧き上がったという話を震災直後にしばしば聞きました。私自身、ニューヨーク・タイムズやCNNのコラムや記事でそうした論調を直接に読みましたし、政治的に難しい関係にある中国や韓国でも、メディアや市民がそうした日本人の行動をことさら好意的な方向で取り上げているという話もマスメディアやツイッターを通じて聞きました。

私は、日本人のひとりとして、他人様から、おそらく嘘もお世辞も必要としない状況の中にあってその態度を褒めていただいたことに心の底からありがたく思い、そのようにして文化や政治や人種や言葉を超えて伝わる人間としての善きことイメージに感動をします。善きことのイメージを共有できる人間の素晴らしさとでもいいますか、そうしたものに対して。また、とくに、一度でも日本の地を離れて暮らしたことのある人間に特有の心の動きではないかと思うのですが、小さな極東の島国である日本の存在自体がいとおしくて仕方がないということもあります。

ただ、それと同時に思うことがあります。私は日本以外のアジアの国には一度も行ったことがないので、アジアの人たちが彼らのどのような価値観からを自らの感情や欲望を押さえて行動する日本人を賛美してくれるのかはよく分からないのですが、私が接したいくつかの欧米メディアの報道に関連して考えるかぎり、略奪などこれっぽっちもない街並み、動かない電車を前にした整然とした行列などの私たちの行動は、西洋のメディア関係者がもしかしたら美しく誤解してくれたように、西洋的な個人の倫理観がことをなしたということでは決してなく、そうではなくて、日本の社会に長い長い時間をかけて埋め込まれた、個人よりも集団の存在をまず考えることを要請する規範意識が、あたかも動物の本能がそれをなすようにして発動した結果であるということを忘れてはならないということです。

それは日本人にとっては、あまりに当たり前の行動であって、それができなければ、これだけ個人を抑えることを強いている社会の妥当性や正義はどこにあるのと言いたくなるほどのものです。できて当たり前なのです。だから、褒めていただけてとてもうれしいという感情は私にも強くあるのですが、だからと言って、自分の実力に対して自分自身が評価をする際に、図に乗るのはやめようとも思うのです。言うまでもないことですが、一部のメディア(私が読んだのは、たしかアジアのそれだったと思うのですが)「日本は行政が中心になって、地域や産業や学校が協力し、地震対策や訓練を熱心にやってきたから、こうした冷静な行動ができたのだ」という意見は、部分的には正しくはあっても、ものごとの本質を語っているわけではありません。

私が慈しみ、同時に目の敵にする日本の社会は、そんなにヤワではないと思うのです。