帰国子女がすべからく外国語の達人という訳ではない

勤め人をいったんやめてシンガポールで大学院生を始めたid:phoさんの英語に関するエントリーは、英語学習の勘所を上手に言い当てている。

「外国に行くと、外国語に慣れることはできる。でも、上達するかどうかは別の話」とphoさんは言うのだが、まさにそのとおりだと思う。外国で生活した経験のある方には、phoさんの言わんとしていることはとてもよく分かるのではないかと思う。


■海外に住むと英語が上達するのか(『technophobia』2010念9月20日)


僕は、慣れたけれど上達はしなかった典型的な口である。4年と半年もいると、その国の言葉には少々は慣れる。慣れるとどうなるか。日常的な受け答えみたいなことについてはあまり苦にならなくなる。挨拶したり、買い物したり、電話をしてあれこれと出張の予約をしたり。こうしたことは、日常の中で頻繁に繰り返されるので、“慣れる”のである。これらのやりとりは、ある意味、馬鹿でもできるようになる。

ところが、それだけで語学が上手になるかと言えば、決してならない。例えば、phoさんが語っているラテン語の慣用句であるとか、あるいはシェークスピアの警句であるとか、日常や仕事で使う言葉とは関係のない、あれこれの専門的な用語であるとか、はたまた、巷間で交わされるはやり言葉であるとか。そういう類の表現をくわえ込んでくることができると、そのときはじめて、その国の言葉が“上手になる”のだと思う。

言い方を変えると、ここで“慣れる”という言葉で語っているのは、暮らしていれば、その範囲で自然と学習ができる表現のことであり、“上手になる”と言うのは、意図的な学習の積み重ねがあって初めて可能になる言語表現の範疇についてである。

外国から帰国すると、慣れなければできない類の会話はある程度できるようになる。そうすると、日本では語学が上手であるかのように言われるが、実はそれは必ずしも上手であることを意味している訳ではない。phoさんが語っているのは、そうした類の事柄だ。

島国日本は、外国語に慣れることが容易にできない環境なので、慣れている人を賞賛し、だから、ちょっとでも慣れるために会話学校みたいなものがはやったりするのだが、一歩外に出ると、その部分は知的な戦いを行う際にもっとも重要というわけではないのだということにすぐに気づかされる。一方で“上手に”の部分はすべからく勉強が必要となる部分で、その人の努力の量がものをいう領域だ。その部分は、慣れていようが、なかろうが、こつこつと、地道に、前を向いて、という気持ち、やる気がものを言うのであり、日本にいるとか、外国にいるとかいうことはあまり関係がない。

慣れていることが、ある種のアドバンテージであることは間違いない。しかし、そこを越えて上手になるかどうかは、やる気がものを言う。帰国子女で外国語をぺらぺらしゃべる少年が、日本で楽々とその言葉の達人であり続けることができるかというと、決してそんなことはない。慣れのアドバンテージの上に「上手」を打ち立てることができるかどうかは、ひとえにその人の努力の量次第である。その点で、日本で学習をする人たちに大きなハンデがある訳ではない。時はインターネットの時代。生きた教材は飽きるほどある。そう考えると、決定的な要因は、努力を保証する学習動機が十分か否かということになるのだと思う。「なんで外国語やるの?」という問いに対する答えがどれだけその人の中にあるのか、そこに尽きていくのだと思う。なまけもののわたくしが大きな声で語る話ではないのだが。