Kindle発売でぼんやりと思うこと

Kindleが日本を含む米国以外の各国でも発売と相成った。当面(その当面がどれぐらいの長さになるかは誰にも分からない)は、日本の出版産業がアマゾン、その他の流通業者やハードメーカーに協力して電子出版に雪崩を打つ、ということにはなっていないので、かなり長い“当面の間”、この初めての本格的な普及版電子ブックリーダーは、我が国では洋書を読むごく一部の読書家のうち、電子ガジェットが大好きな一部の読書家といった珍種に行き渡るにすぎないのではないかと思われる。

ところが、米国在住でKindleを使っている人たちのコメントをブログなどで読むと、どうやら電子インクという技術はなかなか出来がよいらしく、紙よりも読みやすいという声すら聞こえてくる。そういう市中の評価を知ると、たちまち気になりはじめる。新しいおもちゃで遊んでみたくなる。いや、それほど洋書をたくさん読むわけではないので、購入したとしても宝の持ち腐れになること必定なのだけれど。

本をつくる編集者の人たちを見ていると、判型をどうする、組み方をどうする、カバーデザインをどうする、紙をどうする、とテキストそれ自体以外の要素を本の大事な構成要素と心得て、最大限の注意力を注いでいるのがよく分かる。Kindleの画面では、それらの要素はすべて無に帰するのだなとぼんやり考える。Kindleで本を買うということは、そういう努力を何ら評価しない、あるいは電子ブックの利点がそれらの属性をなきものとしても心が痛まないという読者の存在を明らかにし、将来にわたって育てていくことになるわけだ。かつて、音楽媒体がレコードからCDに変わったとき、小さなジャケットはなんとも心許なく、信じられないほど小さいフォントのライナーノートにがっかりしたような覚えがあるが、CDの、ものとしての手応えのなさに対する悲しみの感情は、その音質(これには当時から今に至るまで異論・反論がしこたまあるけれど)と使い勝手のよさの前にすっかり消えてしまった。

電子書籍の広告に出てくる、すました美男美女がプラスチックの板を目の前にかざしているその格好悪さといったらないと僕は思うが、CDが音質よりも結局は使い勝手の高さで普及したように、機能の高度さは、ある一点を超えれば普及のエンジンになるのだろう。日本では、どうだろう。書店に並ぶ色とりどりの本には数多くの編集者の熱意と創意工夫が込められている。膨大な労力が詰め込まれている。そうやって作り出されたパッケージが一挙に存在感を失うとまではならなくても、商品としてのその付加価値が日ごとに薄まる時代がやってくる。それは間違いなくやってくる感じはする。

Kindle、買おうか、どうしようか。