漆は切ない

ブログ中毒はなかなか治らない。しばらく書かないと体の中に毒素がたまってしまうような気分になり、それらを人の目につくところに吐き出したくなる。たまるのは字毒だろうか。おそらく。そんなものを読まされる方はたまったものではないかもしれないが、しかし、好きで読んでくださる方もいるという意識が、この中毒の根幹にあるのだから、質が悪いとは思う。ともかく、ここには、この文章の発表に関して是非を判断する者が自分しかいない。

『米と僕』のこのエントリーで、漆の木は、その樹液を活用するために10年以上の時間をかけて育てられ、1年で破棄されるという話が紹介されている。始めて知った。筆者のalsograficoことスガハラユウさんは、そのことを「とても切ない」と表現する。


http://d.hatena.ne.jp/alsografico/20091014


「とても嬉しい」に何度も出会うのも人生だが、「とても切ない」に何度も出会うのも人生である。「嬉しい」にもそういうところはあるが、「切ない」はさらに本質的なところで他者との共感が根っこにある。それが無常観と地続きであるところが、「嬉しい」とは異なっている。この共感と無常観は、心にとってしばしば重い荷物だが、年齢を重ねて後、人との関係をつくりだす原動力は、こうした重たさの実感ではないかと思ったりもする。

これから後、漆器を見る眼が変わるような気がする。