モザイク・クァルテットの弾くハイドン

セルゲイさん(id:SergejO)がブログで紹介していたモザイク・クァルテットの演奏会には見事に行きそびれた。この秋はアンスネスとモザイク、この二つをターゲットにしていたのだが、どちらもチケットを取り忘れてしまった。アンスネスの方は王子ホールの分の発売日に電話で購入を試みたら、すでに完売だった。まだ、タケミツホールのリサイタルはあったのだが、「そこまでして聴くほどもなし」と思い買うのを見送った。これに対してモザイクに行かなかったのは単純に物忘れの結果である。大きな失敗である。

残念さが増したように感じたのは、ハイドンの『弦楽四重奏曲 第35番 ヘ短調 Op.20-5 Hob:III.35』を彼らが演奏したことをセルゲイさんのブログで知ったときだ。モザイクが弾くこの曲は僕のお気に入りで、繰り返し聴いた。だから、ぜひ一度生で聴きたかった。もっとも、聴き逃すのもコンサートの楽しみのうち。負け惜しみではなく、そんな風に考えもするが、それでもやはり惜しい。

ハイドン弦楽四重奏の面白さを知ったのはモザイクとリンゼイという二つの人気クァルテットの演奏によってだ。ブダペストや、スメタナや、ウィーン・コンツェルトハウスなどかつての大物四重奏団の録音で聴いていたハイドンは、たとえばスメタナの弾く『ひばり』だとか、本当に美しい音楽だとは思ったが、あまりに安定感があって、自らのうちに充足し切っていて、それが物足りなかった。どうしたってハイドンは、人生の意味を追究することに必死な若者が聴く音楽ではない。それは今でもそう思う。

転機は軽い鬱に陥った数年前に、その快復の過程で出会ったモザイク・クァルテットの演奏だった。なんとも言えない軽み。押しつけがましさが極度にない音楽。しばらくの間、音楽を聴けず、本を読めずという状態で過ごしていた時期を過ごし、そこから抜け出そうとする時期に久しぶりに聴く音楽はバッハとハイドンだった。バッハの鍵盤曲。それにハイドン弦楽四重奏曲。しかし、それがモザイクの演奏でなければ、当時の僕は穏やかで明るいだけのハイドンであったならば、決してまっすぐには受け付けなかったかもしれない。流麗でドラマチックな演奏はなおさらだったろう。その点、モザイクの演奏の持つ軽さの表現はひとつの救いだった。

吉田秀和は、モザイクのハイドン演奏について次のように書いている。

古楽器派」の演奏を聴いたとき、誰もが気がつくとおり、この四人のハイドンを聴いていても、各声部の透明度がとても高い音が聴こえてくる。四つの声部の独立した響きがよく聴こえる点はもう、極端といってもいいくらいで、ガラスの容器に入った四匹の金魚の容姿、動きを近くからよくみているような気になる。その四匹が、別々の方向に泳いでいるときもあれば、何匹かは同じ方向に向かって同じくらいのスピードで泳いでいるときもあるわけだが、どんなときも、四匹の姿は手にとるようにはっきり見えるといっても言いすぎではない。
弦楽四重奏曲集 作品七十六 『吉田秀和作曲家論集6』より)

吉田さんの批評が気持ちよいのは、彼の好き嫌い、善し悪しの判断と、演奏の特徴を客観的に俯瞰することを混同しない点である。この評の中でモザイクの演奏は、その透明度の高さ、旋律の音楽として聴かれてきたハイドンの四重奏曲を旋律と同時に和声の音楽として表現することの新しさを指摘する。その独自の繊細な意識のありようを吉田さんはしっかりと言葉にしている。

しかし、同時に彼にとってモザイクの音楽は、彼にとっては情緒的に共感を得るものではない。この論考の中では次のような違和感の表明が繰り返しなされている。

こういうものを聴いていると、古楽器による演奏が、演奏家だけでなく、私たち、聴き手の側にももたらした斬新な新しい輝きや柔らかなタッチの音色の快さや、その他のもろもろの楽しみと、それによって、まるで新しく修復された古画を前にして味わったときのような感動を味わったことへの感謝を改めて書き付けておく必要を覚えずにいられないのだが、それと同時に、透明度が増したということそれ自体が、音楽的価値ではないのだという思いが強くするのである。
(同上)

吉田秀和の文章は、モザイク・クァルテットの『ハイドン・セット』の演奏に対してなされたものだが、もし、セルゲイさんが紹介している、そして10月30日の王子ホールで演奏された『弦楽四重奏曲 第35番 ヘ短調 Op.20-5 Hob:III.35』を聴いたらなんというだろうと僕はしばしば空想に遊ぶことがある。それほど、この演奏には他にはない独自の価値がある。「頼むから音楽を消してほしい」と思わず心が叫びたくなるような痛みを抱えていた時期に、バッハに続いてこのディスクを聴けるようになったのは、人の心にまっすぐと訴えることをためらうような繊細さの表現ゆえだ。どこか空虚で、その空虚さの表現があればこそ暖かい、逆説を孕んだような演奏。

おかげでモザイクのハイドンのCDは何枚も買う羽目になったが、彼らの盤はどれも安売りをしていなくて財布にとっては痛いのである。それぞれに魅力的だが、有名な曲よりも、そうではないものに惹かれるものが多い。どれか一枚というのであれば、ためらわずにこれを勧める。

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