室内オーケストラの魅力

昨日、横浜のアマチュア合奏団、緑弦楽合奏団でモーツァルトのK516を聴いた話を昨日書いた。当日はその一曲前、休憩の直前にマーラー交響曲第5番の第4楽章アダージェットが演奏された。モーツァルトの演奏では通常5人で演奏されるこの曲を二十数人の弦楽合奏で聴かせてもらい、普段聴くことがない分厚い響きに接することができたのだが、これに対してマーラーは大オーケストラで演奏される演目である。こちらはモーツァルトとは反対に各声部の見通しがよく、透明感のある響きが演出され、モーツァルトと対極にある新鮮さを味わうことができた。


弦楽合奏団はその名の通り弦楽のアンサンブルだが、こうした小ぶりの室内合奏団の勃興はここ二十年の特徴的なムーブメントと言ってよいだろう。プロの世界でも岩城宏之さんがつくった金沢のオケや紀尾井シンフォニエッタ、水戸室内管弦楽団など、いくつもの団体が旗揚げをし、支持を得ている。僕はこのブログの中で「オケはダサい」と書いて一部からはひんしゅくを買ったが、つまり従来のあつぼったいオケのダサさを克服する歴史的な動きがこれらの小規模のアンサンブルだと思う。


「オケはダサい」とは書きはしたが、正直言えば一種のネタづくり用発言ととらえてもらってもいい。オケ鑑賞にけっこうな額の小遣いを投資してきた身としてはオーケストラが嫌いなわけがない。とはいえ、オーケストラという表現形態が著名な作曲家によって曲を与えられ、ブルジョワに支えられ、歴史の流れに飲み込まれずにここまで生きてきたのは事実とはいえ、それが西洋音楽の進化の頂点、あるいはどん詰まりにある形態とも言い切れない。小規模なオーケストラの試みが、巨大オーケストラを聴く耳を相対化し、音楽体験の垢を洗い流す役目を果たしてくれるのは面白いと思う。


いま、聴いているCDにパーヴォ・ベルグルント指揮のヨーロッパ室内管弦楽団によるブラームス交響曲全集がある。数年前にCD屋で何の気なしに視聴をしたときに、第1番を聴いていると面白くて、思わず全曲を聴き通してしまった覚えのあるCDなのだが、先日、お買い得価格の中古を見つけて反射的に買ってしまった次第。最初のブラームス交響曲を聴くCDとして買うべきものかと言えば、これも絶対に否だが、フルヴェン、カラヤンベーム、セル、バーンスタインアーノンクールと我が家のCD棚に並ぶ全集のどれにもない新鮮さを味わうことが出来る。楽器のバランスがまるで違う。ひと言で言えば、木管楽器の動きがよく聞こえるのが大きな特徴である。ビッグバンド・オーケストラでは内声部を受け持つ楽器、低い声部で動いている楽器、か弱い木管楽器の音らははっきりいって素人にはよくわかんない、なんかなっているぞ状態だったりするわけだが、ヨーロッパ室内管弦楽団の演奏では、「ブラームスってそうだったのか会議」が開けそうな様相と相成る。例えば、ブラ1の第2楽章冒頭のファゴットの動き。いいじゃん。ばっちり存在感ありあり。


ベルグルントは一度ニューヨークでニューヨーク・フィルを振るのを聴いた。指揮者には珍しく左利きでタクトを振るごつい面構えのおっちゃんだ。若手のヴィルトオーゾ、ブロンフマンを迎えたラフマニノフの3番のコンチェルトとお得意の(というか、日本ではそのイメージしかない)シベリウスというプログラム。5番の交響曲を聴いた。シベリウスはやはり素晴らしかった。と、これは本題に関係のない思い出話だが、彼のブラームスシベリウスを彷彿とさせる端正さが室内管弦楽団のテイストとうまくマッチしている。こんなのはブラームスじゃないと反応する人には向かないが、ベスト盤選びに飽きた人にはお勧めします。