誰もいない山中を歩くような文章書き

10代、20代の頃は山と音楽にのめりこんでいましたが、結婚し、子供ができて山登りから遠ざかりました。その頃までは友人とザイルを片手に飛沫を浴びながら滝を昇っていく「沢登り」というジャンルの遊びに熱中していたのですが、子供ができると下手をすれば大怪我をするおそれもある行為をレクレーションとして続けるのは気が引ける。となると、当時の気持ちとしては「尾根歩きなんて、まどろっこしくてやってらんないよ」という感じでしたから、けっきょく10年以上の間は山からずっと離れる生活を送ることになりました。山の仲間との関係も切れてしまいました。

ところが、子供が少しづつ育ってくると、今度は家族でキャンプをしたり、簡単な山歩きをするようになります。アメリカの4年間は家族で時間をつくっては自動車にテントを積んでキャンプに出かけましたし、それが契機で日本に帰り40歳を過ぎてから、再び自分自身のための日帰り登山が始まりました。しかしこの登山は医者から勧められた運動不足解消の一環で、回数も年に1、2度。場所も判で押したように同じルートを丹沢の塔ノ岳目指して登る、ある意味で味気なさがついてまわるものでした。それに対して、先日の丹沢主稜縦走は、自分の気持ちの上で純粋に楽しみのためのもので、山中泊までして出かけたいと思ったのは久しぶりのことでした。

やってみると自分自身で思い描いていた以上のインパクトがありました。一日であればなんとかだませても、二日続けて坂の上り下りをする十分な脚力がないことがはっきりと分かり、ごく自然に「これは少しずつでも、日常的にトレーニングをしなければ」という考えが頭に浮かんだのでした。曰く言い難いところがあるのですが、その考えは義務感に後押しされるというのではなくて、むしろ「それは楽しそうだ」というわくわく感と一緒に立ち上がってきたのです。

同じように歩いている自分に浮かんできたもう一つの感想は、山を一日、二日とかけて歩くことは時間をかけて文章を書くことと似ているということです。あとで考えてみると、これは小説執筆とマラソンの類似性を語っている村上春樹の最近のエッセイ『走ることについて語るときに僕の語ること』の焼き直しじゃないかと気がついたのですが、そのときには必ずしもハルキさんの文章があってそれを思い出したということではありませんでした。それに僕が汗をしたたらせながら1時間以上誰とも会わない丹沢の最深部の中で強く思ったのは、歩くことと文章を書くことが互いを補強しあうという文脈ではなく、「このまま歩き続けられるのであれば、私的な文章を書く動機は起こらないのではないか」ということでした。山と文章とは、最近流行の脳の話に関係しそうな唐突なつながりではあるのですが、僕の脳の中では喜びの回路の中でなにやらつながっている気配なのです。

そこで次に考えたのはブログは山歩きとはかなり違うということでした。この30分から40分程度の、速攻のような文章書きは、じっくりと歩を進める山歩きよりも、瞬発力を競う短距離走の趣があります。いくら小さな文章を書いても、それらを集めて長い文章ができるわけではなく、明らかに両者はまったくことなる創造行為です。どうも、自分は何日ものあいだ泊まりがけで誰もいない山中を歩くような文章書きを久しぶりにしたがっているようだと、いまは強く感じるのです。