呼吸すること

昨日のエントリーに「音楽的な文学作品」というタイトルを付けましたが、とても不十分、ひでえものだと自分の文章を見てがっくりしました。ここは、明らかにもういちだん敷衍して、あらゆる文学作品は固有の音楽性を備えていることに言及するべきだったと思います。僕の場合、小説に関して言えば、イデオロギーに惹かれたり、人生論として読むのではなく、それらを「詩」ないし「音楽」として読んでいることが多い。他の人のことはなかなか分からないものですが、誰しも文体の好き嫌いというのをお持ちなはずで、それはつまるところ、唄としての文学ということと人の感性とが本来的に不可分であることを示しているのではないでしょうか。そんな風に思いめぐらしてみるのです。

三上さんが「最近、あらゆるデザインは、たとえ文字が登場しなくとも、究極的にはことばのデザインであるという見方に密かに到達しました。というか昔からそう薄々感じていました。」と、とても刺激的な見解を表明していらっしゃいます。見事なエントリーです。

■ページは言葉を祝福できるか(『三上のブログ』2008年2月21日)


僕には「あらゆるデザインはことばのデザインである」という断定にまでは容易にはいけそうにありませんが、三上さんの感性と根を詰めた勉強がそう言わしめている。そうだとすれば、あらゆるデザインが音楽であることにもなりましょう。音楽の本質は息。呼吸にあります。日本のフルート界の大御所だった吉田雅夫先生が生前、よくテレビで言っていました。「笛を吹くのは魂を吹き込むことだ」と。魂は常にふるえてひとところに静止しているわけではない。繰り返しの表現に突き動かされる我々の存在は、呼吸をする者としてそのように運命づけられてるのだと言って差し支えないでしょう。やっかいなものですが、それを喜びだと感じなければ生きている価値がなくなってしまいます。